ばかのふりができない

人はコミュニケーションを円滑にするため、馬鹿のふりをして生きている。そのようなニュアンスの言葉を聞いた。

なるほどたしかに、言われてみればそんな気がする。わざと意味のないことをしたり、非常識なことをしたり、幼稚になってみたりしてじゃれあう。それが友達なのかもしれない。実際の記憶と照らし合わせても、それは違和感のない考えのように思える。

人はそれぞれ楽な考え方を持っていて、そのうちのひとつにバイアスが数えられるが、それを抜きにしても思考には偏りが存在している。それが個性と呼ばれるものだ。

個性がある中である程度の統率を取るためには、どこか一点に合わせる必要がある。そのためにあえて馬鹿になる、という側面があるだろう。上に合わせるよりは下に合わせるほうが容易だ。もうひとつは知能が低いという、ときに欠点と見做される様子、つまり弱みを見せる行動を取ることで己の無害さをアピールする意味合いもあるのだろう。

断っておくと、知能の高低で人の良し悪しや無害さが決まると私は思わないが、世間一般における価値観を解剖する試みなので薄目で通ってほしい。その証拠に、私はいわゆる馬鹿のふりをするのが下手だ。そうでなければこんな日記は書かない。

そう、馬鹿のふりをするのは難しい。コミュ障といえば主に喋りすぎたり寡黙すぎたりすることを指すが、そんな単純な話ではなく、馬鹿のふりをする技術もまたコミュニケーション能力のひとつなのではないだろうか。

しかし、いくら「ふり」でも看過できない事柄はいくつかある。とくに、いじりといじめの違いを私は認識することができない。いや、もしかすると本当に同じことでしかないのかもしれない。本人が嫌がっていなければ良いとする考えもあるだろうが、そもそも嫌がってもいいんだ、守ってもらえるし他に居場所があるんだと思えなければ嫌がることさえ難しい。

誰かの犠牲の上に成り立つ仲の良さなんて無いほうがいいとさえ思う。そんなことで笑うくらいなら、一生しかめっ面をしたまま死んだほうがマシだ。

そんなふうに考えていると、だんだん世の中に溢れる様々な「笑い」に対してシビアになってくる。特定の属性を見下し差別する笑いはとくに、ネット現実に関わらず繁茂している。もちろん健全な笑いも存在していて、一概に言えないことは確かだけれども、とくにツイッターでウケを狙おうとしたときは意識して立ち止まりたいと思っている。

そういった、一言で言うなら「悪い笑い」を私は無くしたいと思っているが、それを必要としている人が居ることも忘れたくはない。笑いはストレス解消にもってこいの行為だ。善悪など忘れてただゲラゲラ笑っていたい日もあるだろう。

何を人生の楽しみとするかも人それぞれだ。馬鹿をやってはじけるのが楽しみな人も居れば、学問を深めて知識と体験が繋がる快感を求めている人もいる。ただひたすらに制作や練習に打ち込む楽しみというのもある。色々な楽しみ方のうち、笑いだけを否定するのはその人たちから楽しみを奪うことになる。それは避けたい。

だから楽しみの方向性が違う人同士が集まったときには、互いに少しずつ我慢しながら、それでも共存していくしかないのだろう。それが多様性のある社会というものだ。

逆にフォローするアカウントを選べるツイッターは、心地よいアカウントを選び続ければ多様性に欠けた場所になると言えるだろう。それもまたひとつの安全な居場所として価値があるが、人生そればかりでは立ち行かないことも覚えておきたい。

なんだかまとまりのない文章になった気がするが、これはばかのふりができないひとりの人間が綴った、あるひとつの別れに捧げる日記である。あなたの求めるものに応えられなくてごめんね。