ジェットコースター

今日は天人峡の羽衣の滝を見に行った。車で一本道をひたすら走ると、見事な柱状節理が出迎えてくれる。

駐車場に車を止め、奥に進んでいくと廃墟となったホテルがいくつか見られた。心の中の悪ガキが、探索しようぜ……と囁いてくるのを制すのに必死になった。クラウドファンディングで資金を集めて取り壊すという話を聞いたことがあるが、マジで治安が悪かったので本当にそうした方がいいと思う。

さらに奥に進むと、存外きちんと整備されており、散策にはちょうどいい道になっていた。ところどころ雪が残っていて山の寒さを知る。

程なくして滝に到着した。先日見た布引の滝とは打って変わって、静かな優美さを感じる滝であった。道中の川も、澄み渡っていてとても美しかった。

奥にも滝があるらしかったが、とても軽装で登れそうな足場ではなかったためそのまま帰宅。

羽衣の滝 アイシポップ川

最近はセルフ謹慎処分として全てのSNSを断っているのだが、以前は1時間以上ツイッターに費やしてたので当然のように暇を持て余していた。

母が昔遊んでたことを思い出し、スパイダーソリティアをダウンロードしてプレイすることに。最初の数回はビギナーズラックというもので、数分でクリアできてしまい、随分簡単なゲームなのかと錯覚させられたが最後、地獄のような手札が待っていて元に戻すボタンを連打することとなった。

諦めてもいいのだが、しかしこの難所を超えた先でのゴールこそ気持ちいいんだろうな、という一心でひたすらポチポチしていたら1時間も経っていた。恐ろしいゲームである。

ソシャゲは言わば味の濃いレトルト食品だ。誰でもすぐに楽しめる。反対に、ソリティアや数独なんかは素材に塩を振っただけの質素な料理だ。楽しむにはよく噛むことが求められる。

映像作品と文学作品も似たような構図になっている気がする。すぐに楽しめる映像作品と、よく噛んで味わう文学作品。どちらも違った味わいがあって、どちらも良い。選択肢があるのは良いことだ。

昨日のことを反芻する中で、自転車で坂道を下る感覚はジェットコースターに似ているな、と思った。

ただ自転車の場合は安全が保証されていないから、肝が冷える。ので、ブレーキをかることになる。子供の頃はブレーキをからずに坂道を下っていたが、今思うとなかなか怖いもの知らずだ。まぁ子どもというのは往々にしてそういう生き物である。

ジェットコースターでは景色をまじまじとは見れないように、私にとっての読書体験や鑑賞体験もそんな感じがする。

登場人物が居る。何事かが起こる。私はその様子を眺めている。見たものを噛み砕くよりも先に映像が進んでいく。読書に関しても、脳内で音声と映像に翻訳しながら読み進めているから同じことが起こる。

最近、といっても1年は経つが、京極夏彦の百鬼夜行シリーズを読み始めた。ときにレンガ本と称されるこの分厚い本、私の読書スタイルと相まって、厚みに反してするすると読めてしまう。

ときに軽妙な会話劇。妖怪に絡めた事件の解明、作中では憑き物落としと称される。そして圧倒的な知識量に裏打ちされたリアリティ。オカルティックな要素にもまた興味を唆られる。

『姑獲鳥の夏』において、関口巽は地の文において、私は正常だ、狂っているのはお前達の方だ──、と語る。他でもない関口巽という人物から発せられたこの言葉に出会って、なんというか、心底救われた気がしたのだ。

鬱がひどくて寝込んでいた合間に出会ったからこそ、雷のような衝撃が走った。そうだ。周りに合わせよう合わせようとして空回りしていたけれども、そんな必要はないんだ。違いがあるのならば、それは私こそが正しいと言っていいのだ。

もちろん討論の末に間違いを認めることもあるだろうが、それでも私の味方をしてくれるのは私しかいない。ならば、私が私を正しいと思わずしてだれが思ってくれるだろうか。

こうして振り返ると、私の精神は随分と健康的になったものだと感慨深い。あの頃の私は、健常なのか、狂っているのか、その狭間で煩悶していた。

記憶に残るのはこうして目に焼き付いた一瞬の光景で、ストーリーはてんで上手く説明できないことがほとんどだ。

それでも、物語の流れに身を任せる体験は好きだ。よく分からなかったけど、でも楽しかった。そんな、ジェットコースターのような体験。

そう考えると、私の中で映像作品と文学作品の差はあまりない気がしてきた。どちらも私には時間の流れを操作できないし、どちらも終わったあとに内容を噛み砕く。そうして腹に落としていく。

あると思っていた線引きが溶けていく。初めから明確な線なんてなかったのだろう。きっと、そういうことが他にもある。

こんなことを言っては作家に失礼かもしれないが、物語がどのような筋書きだったかはあまり重要ではなく、作者が言いたかったこと、あるいは自分にとって宝物だと思える一節に出会うことこそが、物語を読む上で最も大事なことなんじゃないかと思う。