異常か正常か、そして労働の話

 病気や障害とはなんだろう。最近よく思う。
 薬が作られる前は、鬱病も発達障害もその人の性格だと考えられていただろう。病気や障害と名前がつくことで、その状態に対するマイナスイメージが付くことになる。ただありのまま、ではいられなくなる。
 その区別がそのままレッテルとなり、差別のきっかけになることさえある。差別はレッテルを付けることから始まる。
 その人の性格だと受け入れるか、病気や障害だと区別をつけるか。それを治したほうが、否定したほうが生きやすいとするのは、健常者側の傲慢なのではないか。その人なりの、その状態なりの人生が、幸せがあったのではないか。そう思わずにはいられない。
 その一方で、双極性障害における躁状態は周りから見て楽しそうでも、本人はつらいという話を聞くにつけ、やはり治療が必要なこともあるのだろう、とも思う。
 一年前の私は、正常であることに拘っていた。
 しかし、正常なのか異常なのか自分では判断が付かなくなっていて、それが恐ろしくて、狂いそうになっていた。
 周囲と比べて私がどうか、ではなく、私は私である。そのままの私でいい。周りと同じである必要はない。周りが正常でも、私が異常でもなく、ただ違うだけなんだ。その違いに優劣はなくて、その違いこそがアイデンティティで、だから大丈夫だ。そういう考えにたどり着いて、なんとか落ち着くことができた。
 健康が一番、普通が一番と言うが、健康も普通もマジョリティのことだ。そりゃ大多数に属せれば楽に生きられるだろう。それでも、自分を曲げてでもマジョリティに属することが、果たして幸せに繋がるだろうか?
 楽なことが幸せだ、とする人も居れば、苦しくとも私らしいと思える生き方が幸せだ、とする人も居るだろう。ここから先は個人ごとに答えが異なる部分だ。
 私にとっての普通は、ただ静かに本を読んで、アニメを見て、絵を描いて、そしてたまに親と話す。それが今の私にとっての全てだし、これがひとつの完成形だと思っている。
 完璧なのだ。完璧なのに、そこから変わろうとする人は果たして居るか?
 だが、親の財産が山のようにあるわけでもなし、私もいつかは何者かになるのだろうが、でも今は全くなれる気がしなかった。
 もしかすると、その「いつか」も永遠に来ないかもしれない。親の財産を食いつぶして、生活保護を貰って。そういう生き方もあるだろう。
 子供部屋おじさんという言葉は、社会的な成功にしがみついている人、あるいは右肩上がりが前提の資本主義に身を浸している人の言葉に過ぎない。だからなんだ。それで生活できているのなら問題ないではないか。人口が増えることだけが良いことなのか。変わらないことの価値、というものもあるのではないか。
 そもそも昔は、私のような人間は働かざる者食うべからずと追い出されてそこらへんで野垂れ死んでいたのだろう。
 だが現代は、死ぬことが許されない。生きることを強要され、働くことを強要され、何者かになることを強要される。ならばせめて、生きているだけで、そこに居るだけで価値があると、そう言ってほしいし思わせてほしい。
 生きているだけで偉い、だなんて、薄っぺらで嘘くさい言葉でしかない。結局、働かざる者人間に非ず、だ。
 「〜しなさい」と言われることも、「〜するべき」と言われることも、それを言うことも嫌だ。ただありのままで居たいのに、それを許されるのは上澄みのごく一部だけ。

 昔から、他者からの評価にあまり興味がなかった。テストの点もどうでもよかった。どうせ100点近辺なんだから。誰がなんと言おうと、誰がどうだろうと、自分の中で自分が1番だった。
 中学のとき、私のことは蔑ろにされ、私の気持ちは透明にされ、社会から排除された。さらに他者がどうでもよくなった。
 そんな人間に今更、社会の構成員をやれ、と申されても意欲が湧くはずもなかった。だからなんだ。どうせお前らは金以外、私に何も齎さないだろう?
 その金すらどうでもよかった。今はなんとかなっているし、なんとかならないのなら生活保護でもなんでも受ければいい。世間からの視線もどうだっていい。今だって人間のなりそこないだと思いながら生きているのだ。今更、生活保護ごときで変わるようなものでもない。
 私が唯一恐れるのは、社会性を内面化した自身から批判されることだ。自分が怖いのだ。働かないならば人に非ず。生きるに値せず。愛されるべきではない。能無しのクズである。内側から蝕まれていく。
 否、そんなことはない。人は生きているだけで人間であるし、生きていてもいいし、愛されてもいいんだ。能がなくてもいいじゃないか。きっとあなたにしか/私にしかできないことがあるのだから。それはどんな些細なことだって構わない。
 しかし実際のところは、やはり働いている人間は強いのだ。そう、強い。権力がどうとか、偉い偉くないではなく、資本力がある。この世は資本が絶対。できることの幅が違う。金の力をその人自身の力だと錯覚していく。だから強い。
 資本のある人間と無い人間は別の世界を生きるしかない。実際に見えている世界は違うだろう。
 金で買えるものの価値なんて、本当は少ししかない。それを金額という大きな桁で表すから、さも価値のあるもののように感じさせられているだけである。だから金では買えないものこそ価値があり、それを大事にしましょう。一理ある。
 だが、値段は多くの買い手が納得できる数値を付けているだけであり、値段がつかないから価値があるというのは間違いだ。それは人によって価値が変動するから、一定の値を付けられないので付けていないに過ぎない。
 値段の外にあるものこそ公平だ。公平だからこそ残酷でもある。ある人にとっては価値のあるもので、ある人にとってはそれほど価値を感じない。しかし、価値があると思っている大多数の人によって価値を押し付けられる。あるいは、価値がないと思っている大多数によって価値を踏みにじられてしまう。
 結局、多数派が正しい。少数派は間違っていて、異常で、狂っている。そういう価値観がたくさんの場所に蔓延っている。私の中にも。
 百歩譲って、私が労働しなければならないことは受け入れるとしよう。せめて定年後の親には自由に暮らしてほしいと思っているし、その頃には飯を食えるだけの技能を身につけられているだろう。しかし、様々な理由から働いていない人にまで、そのような視線は向けられてほしくない。
 働いていなくとも、懸命に生きているのだからそれで十分だと、そう言えなければ多様性なんて言葉は嘘になるのではないか。
 働き手がいなくなれば社会が崩壊するのではないかと思われるかもしれないが、名誉欲のある人間、何かをし続けていなければ落ち着かない人間は多数存在していて、彼らが変わらず社会を回し続けるだろう。多少不便にはなるかもしれないが、今の利便性は我々の身に余るものだと私は思う。

 「自分らしく生きる」とはなんだろう。「多様性」とはなんだろう。