責任、義務、そして権利

普く全ての関係性は責任と義務によるものだと思っていた。それが間違いだと気がついたのは、全てを失ってからだった。

まず、この話で重要になる単語の語義を確認したいと思う。

責任
立場上当然負わなければならない任務や義務。自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。

義務
人がそれぞれの立場に応じて当然しなければならない務め。倫理学で、人が道徳上、普遍的・必然的になすべきこと。

ゆえに、愛するのは親や子、親友の義務だし、友になるのはクラスメイトや同僚としての義務だ、と定義していた。

親には法的な義務がある。子供の扶養と教育だ。

ちなみに、児童福祉法では、愛護、つまり「かわいがって守ること」も義務としている。

かわいがるとは、かわいらしいと思って、優しく扱う。ひいきする。目をかけてやる。

ということらしい。

そして、愛するとは、かわいがり、いつくしむ。愛情を注ぐ。(性愛の対象として)特定の相手を慕う。恋する。とりわけ好み、それに親しむ。かけがえのないものとして、それを心から大切にする。

ということで、この場合は1つ目と4つ目が該当するだろう。つまり、子を愛することは義務なのだ。

しかし、これは児童の福祉を担当する公的機関の組織や、各種施設および事業に関する基本原則を定める日本の法律(by wiki)なので、親は該当しないと云える。

もちろん、虐待やネグレクトはあってはならないことだ。それを除き、愛しているような仕草さえできれば、その真贋は誰にも分からないのだからそれで十分だと思うのだ。

では、子から親、もしくは友達に対する義務はどうか。法はない。しかし道徳はある。人類みな仲良くすべし、愛されたならば愛を返すべきだ、など、考えられる義務は他にもあるだろう。

私はひとりのフォロワーに愛された。なので、私は愛を返した。そのフォロワーはやがて友人になり、親友になった。とくに事件が起こる前の数ヶ月、私たちは驚くほど仲がよかった。だが、今思えば、あれは行きすぎていた。私のキャパシティを超えていたのだ。

強い義務感は依存とよく似ている。それを遂行しなければ、強い不安を覚えるからだ。

義務感によって毎日会話をしていたある日、ぱったりと友人のツイートが止まった。不安に駆られた私はメンヘラツイートを繰り返し、二日目か三日目にLINEを送った。友人はただゲームに没頭していただけだった。それ以降、関係性はがたがたと崩れていき、最終的に、私は云ってはならないことを云ってしまった。

自分の行動には常に責任がつきまとう。私は己の愚かさを恥じ、ここから去ることこそが義務だろうと思い、そのアカウントは削除した。

あれから半年以上経った。ほとぼり冷めれば怒りも自罰も消えてゆき、最後に疑問が残った。なぜああなってしまったのか。

それは私が〝権利〟を忘れていたからだ。

権利
ある物事を自分の意志によって自由に行ったり、他人に要求したりすることのできる資格・能力。

親と子の間には権力勾配がある。だから親は、法という義務に縛られている。しかし、友とは対等な関係のことを指す。ならば、義務と権利が両方あって然るべきだ。

私には、ツイッターを休む権利があったし、批判に対して言い返す権利もあった。それを知らなかった。だからこそのキャパシティオーバーだ。そして溢れ出したものは、最悪な言葉へと成り下がった。

そもそも友情や愛情は義務ではないと云われればそれまでなのだが、私は他者に対する関心が薄すぎるので、こうでもしなければ、他者という浮きを失って深海に沈んでいってしまう。だから完全に義務を失う訳にもいかないのだ。

いや、深海に居たっていいのかもしれない。天空でも構わない。必ず地面に居なければならないというのも人間の義務の話で、それを無視して海に潜ったり空を飛んだりする権利だってきっとあるはずだ。

私にとってのしあわせはどこにあるのだろう。探していきたい。