執着は煩悩だとしても

来る者拒まず、去る者追わず。とくに転勤族はこの精神に至る人が多いんじゃないだろうか。

物心がついてから七年間、私はT市に住んでいた。そこでは幼稚園からの付き合いの友達や、親友となった友人も居た。

H市に転勤して以降、最初は親友から電話が来ていたが、共通の話題を失えば話すこともなくなり、いつしか電話はこなくなった。軽度の鬱となってからは、年賀状を出すことすら億劫になり、結果的にT市で作った関係は全て途絶えた。

そして現在はS市に在住しているが、やはりH市で持っていた関係は一人を残して全て消滅している。その一人との繋がりも、もはやあやふやなものでしかない。

そのことを淋しいとは思わない。けれど、淋しいと思わないことこそが淋しいとも思うのだ。

ポジティブに考えることもできる。執着で苦しむことがないが故に、いつでもどこにでも行ける。

しかし、基本的に内向的なので、関係性が切れると暫く誰とも関わらない時期が発生してしまう。そういうときに、認知の歪みがどんどんと大きくなっていくのだ。他者と関わることは、歪みの矯正と言える。

ネット上で関係を持つことも可能だが、私にとっては、それはネット上での関係にしかならず、物理的に会って話すのとはまた違う質感があるように思える。

それに、ネット上だと、どうしても考えが近い者と付き合うことが多く、認知の歪みは是正されないと身を以て体感した。(もちろん、認知の歪みそのものが悪い訳では無い。ある程度の偏りがあるからこそ、それが個人の個性となる。ただ、過度な歪みは苦しみを生むという、それだけの話だ)

だから、私に接してくれた人との繋がりを大事にしたいと思い始めたのだが、どうすればいいのか分からない。いや、分からない訳では無い。ただ単純に、最近どう? とでも連絡を入れればいい。ただ、それを実行する勇気がないのだ。

私は話を振るのがすこぶる苦手だ。というかできない。それは偏に他者への興味の無さから来る。私はいつも自分の内側や、紙面上の出来事にばかり興味が向く。眼の前の現実に対してどうやって興味を持ったらいいのだろうか。

好きの反対は嫌いだが、好き嫌いの対極にあるのが無関心だ。私は嫌いな人が居ない代わりに、好きな人も居ないのである。だから恋愛というものも分からない。

無関心の原因はなんだろう。周囲の観察が疎かだからか、他者のことを考えようと思わないからか、気になったことをその人に聞くという発想が欠落しているからか、自分の考えを相手に伝えようという気持ちがないからか。いや、きっと無いわけではない。ただ、私がそれをやってもいいんだ、と思えていないのだろう。コミュニケーションというものが他人事なのだ。

あと、他者と居るときはなぜか頭の中がからっぽになってしまうのだ。これも原因のひとつだろう。何も思いつかないから、何も話せない。道理である。これは幼少期からそうなので、どうすれば変わるのかが本当に分からない。言いたいことを思いついたけど諦めた、ではなく、そもそも無いのだからどうしようもない。

なにか出来事があっても、誰かに伝えようという発想が無いのもある。眼の前ではいくつもの出来事が起こっているが、それに対して無感動に近いのもあるだろう。感情が動かないから印象に残らない。思い出せない。だから話すことがない。

きっと大多数の人は、上記のことで躓くことはないのだろう。それでも、日々努力すれば、私も少しはできるようになるんじゃないだろうかと思う。今までは会話に対して興味がないどころか恐怖さえ抱いていたが、最近はちょっとだけやってみたいな~という気持ちがあるので、やってみようと思います。

何の話だっけ。他者に対する執着のなさの話だったね。

今までの話を踏まえて、なぜ無関心になるかと言えば、会話が上辺だけで終わってしまうからだろう。上辺だけでは皆同じように見えて、それでは興味を持つのが困難なのも頷ける。容姿を見分ける能力も乏しく、全員ほぼ同じに見えるのも困難さに拍車をかけている。ホモサピは全部ホモサピじゃん。

その点、漫画やアニメはキャラデザが誇張されていて、記号的でもあるから見分けがつくし内面の想像もつく。物語は自分からアプローチせずとも、頁を捲るだけで自己開示をしてくれるから興味を持てるのだ。

相手の腹の中を知りたければ、まず自分が腹を見せること。ネット上では自分語りはときに忌避されるが、むしろ自分語りこそが会話においては重要なんじゃないだろうか。そんな気がする。

相手の個性が分かれば、相手のことが好きになったり嫌いになったりするだろう。そうすれば、多少は執着心も生まれるんじゃなかろうか。

気がつくまでに二十年はかかったけれども、生きている限り何度だってチャンスはある。ゼロ地点から走り出そう。いつか心の底から愛せる人と出会えることを祈って。