氷上の自由、地上の不自由

今日は路面がツルッツルだった。まるでスケートリンクである。

そういえば、何年もスケートをやっていない。

小学校では、校庭に水を撒き、それが凍ってできたリンクでスケートの授業を受けたものだ。

最初は立つことすらできなかった。そこで、当時プールも習っており、そこの会社がやっているスケートのレッスンを受けに行くことにした。

最初は雪にブレードを差しながら歩行の練習をする。それで歩けるようになったら、リンクの上で立つ練習をする。それもできるようになったら、コーンをビート板のように支えにして、走る練習が始まる。

コーンという支えを失ってからは、当然のようにこけつまろびつの有り様だった。それでも人間、やり続ければできるようになるもので、レッスンが終わる頃にはビュンビュン滑れるようになったものだ。

私は体育全般が苦手である。ボールを受け取ろうとすれば落ちた玉を無様に追いかけることになるか、顔面で受けることになる。ドリブルは当然のように明後日の方向に飛んでいく。跳び箱だって座り込むのが日常茶飯事だ。

走ることも苦手だ。短距離はごまかしが効くものの、長距離となるとてんで駄目である。心臓はバクバクと音を立て、肺も足も痛み、喉はカラカラになりすぎてえづくことすらある。

要は、体を動かすこと全般のセンスがない。

それでも、水泳とスケートは、習ったおかげで特技と言えるほどに身についた。だから、私にとって水中と氷上は自由な場所なのだ。

体育が嫌われる所以はここにあると思う。授業がまるで授業になっていないのだ。センスのあるなしに関わらずできるようにするため、基礎の基礎の基礎からゆっくりと始めるべきだ。

国語はひらがなをなぞるとこから始まる。形を覚えられなくても、なぞるだけなら比較的簡単だ。算数は1+2から始まる。頭の中でできなくとも、指で数えれば概ね理解することができる。

そういう国語や算数のような、段階を踏む作業が必要だろう。言葉だけで説明され、はいやりなさいで理解できる人はいい。だが、理解できない人にとってはちんぷんかんぷんだ。そんな支えのない状態で放り出されれば当然不安だし、できないと分かれば無能感が募るばかりである。

ひとりで練習したとて、そもそも方法が分かっていない状態では、練習とは呼べない何かを繰り返すだけである。それでは上達など望むべくもない。

だから、体育にもなぞるような、指折りで数えるような何かがあればいい。その何かが分かれば苦労はないのだが。