カッターの刃をしまうように
自分の思考や体が自分の望み通りに動くことの、なんと素晴らしいことか。
不安に駆られて思考がフル回転し続けることもなければ、絶望の底に叩き落されることも、億劫さに支配されてひたすらに眠ることもない。体の重怠さだってない。飯を食べれば旨いと思えるし、面白いものを見れば笑える。それだけで随分と幸せなものである。
無感度に飯を食べ、己の情動にすら疑念を抱いていた頃は、生の実感に乏しかった。
リストカットという行為がある。健常者は自分で自分の手首を切り傷をつけるなど狂気の沙汰としか思えないだろうが、精神を病んだ者にとって、それはある種、痛み止めとして作用する。心の痛みを肉体的な痛みで上書きするのだ。そして生の実感を得る手段でもある。
こう言うとポエティックなので、少し別の角度から言い直してみよう。
心が痛む、という言い回しはあるが、心は肉体のように神経の通った器官ではないので、実際に痛むことはない。心の痛みは即ち思考の痛み。不安によって回転が止まらずに焼き切れそうになった思考回路を少しでも止めるため、出血による痛みという、不安を上回る危険信号を発させて思考のブレーカーを落とすのだ。
私もリストカットをしたことがある。その日もやはり思考が止まらず、半狂乱になりながら蹲っていた。その時にリストカットのことを思い出し、半ばうきうきしながらカッターを手にした。こんなことでこの濁流が止まるのなら、そんな愉快なことはない。
腕に刃を滑らせてみたものの、切れる気配はない。意外と肌というものは頑丈らしい。想像の倍以上の力を込めると、やっと肌に筋が入った。それからやや時間を置いて、ようやく血が滲んでくる。そのときは己の行為に興味が持っていかれ、一時的に不安は止まった。
溢れてくる血を眺める。血はうつくしい。私の好きな人体を構成する要素は、一に眼球、二に血液だ。そうして暫く血の鑑賞を楽しんでいたが、いくら好きでも飽きが来るので、絆創膏を貼っつけて終わった。そういった行為を二度ほど行ったが、行為の良さよりも、変な感染症のほうが怖くなったのでやめた。
それからも思考の濁流はよくやってきて、その度に布団の中で煩悶したり、ノートに吐き出したりした。
気が狂いそうだった。何度も助けてくれと叫んだ。同時に、見放してくれとも思った。何度も何度も、大丈夫だ、と呟いて自分に言い聞かせた。
鬱が悪化してすぐ、近所の精神科に電話を入れたが、当然のように半年待ちと言われて諦めた。それに、ただ怠惰なだけで、狂っているフリをしているだけで、本当は正常なんじゃないかという疑いを捨てきれずにもいたので、その時は病院について考えるのをやめた。
長期休みは実家で過ごし、その間に回復して後期もなんとかやり過した。
そのうち、鬱についての論文を読み漁ったり、恐怖を抑え込むために自分を説得する文章を4時間かけて書いたりした。そうして思考の濁流を乗りこなそうと足掻いたが、最終的に動くことを体が拒否し、観念して病院探しを本格的に始めることとなった。
あの頃の思考は、不安と自己嫌悪に塗れていた。自己嫌悪は無能感を強め、不安をさらに増幅させた。
自己嫌悪とは、心の自傷である。自分を否定し、否定要素を再度確認し、さらに自己嫌悪し、延々と己を貶め続ける。
当時は、そうすることで成長できると信じていた。そうしなければ、劣った人間になってしまうと思い込んでいた。自分の悪いところを批判し続けなければならない、という強迫観念があった。
なぜそこまで自分を嫌悪していたかと言うと、うつ病の特徴のひとつに自己注目というものがある。とくに己の失敗について目が向くようになり、自分はなんて駄目な存在なのだろうと思うようになるのだ。
自分が無能なら、常に努力しなればならない。それは常に気を張らなければならないということだ。そうして気力体力がじわじわと削られてゆくのだ。
自己否定は何も生まない。非生産的だ。それよりは、なぜそうなったのかを分析し、次はどうすればいいのかを検討し、実践したほうがずっといい。
自分を傷つけることは、否定することは、自分を嫌うことだ。だから、あの頃は自分のことが大嫌いだったし、同様に他者のことも大嫌いだった。
自分を嫌えば、無能感は増幅し、同時に自分という支えを失ってひどく不安定になる。不安は他者への恐怖となり、他者に怯えていることを認めたくないから嫌いなのだと理屈付ける。そんなのは嘘っぱちである。
抗うつ薬と安定剤を飲むようになってから、脳内は嘘のように静まり返った。無音の空間すら己の思考でうるさかったが、久しぶりに本当の無音を味わった。
私にとっては、それが不安だった。こんなに何も考えなくていいのか。考えなければ己に価値はないのではないか。そんな不安だ。
時間をかけ、また、賢い生き方を学び、考えるべきときに考え、そうでないときは休むことを学んだ。
実家でゆっくりと過ごすうちに、自分は思っているほど無能ではないということに気がつき始め、自分を愛することを思い出した。その頃、やっと心の自傷をやめることができた。
今はボロボロになった己の心身を労りたい。そして、大事にする方法を学んでいきたい。もう自分で自分を傷つけるのはおしまいだ。