着飾る理由は特にないけれども
好みドンピシャのコートを見つけた。
ケープ付きのロングコート。ひと目見た瞬間「これだ」と思った。
店に吸い込まれる。
吝嗇家なものだから、真っ先に値札を見てしまう。約三万円。一瞬たじろいだものの、コートとしては随分と安い部類に入るだろう。
私にとって服というカテゴリでの三万はびっくりするほど高値という認識だ。親も私も、あまり服に拘りはない方であったため、このような金銭感覚をしている。
だが最近は、布や靴の組み合わせ(これを人はファッションと呼ぶのだろうが、高尚な感じがしてとっつきにくい)で遊ぶのが楽しくなってきた。特に色味の組み合わせを考えるのが楽しい。同系色か、補色か……。少しずつではあるがこだわりが出てきた。
ふと気になって服を数えたら、手元にトップスが7着しかなかったので驚いた。ズボン(パンツとも言うけど文字だと下着にしか見えねえ)も5本だった。今まで引きこもりだったからこれでも回っていたが、最近は外に出ることが増えてきたので、もう少しあってもバチは当たらない気がする。
しかし、これだ! と思えるものに出会うのはなかなか難しいと、今回ウィンドウショッピングをして思った。そろそろAIが箪笥の中身からオススメのブランドを教えてくれる時代にならないかな。
今の時代はネットショッピングが主流なのだろうが、サイズや色味が思っていたのと違ったときに返送するのがダルすぎるし、似合うかどうかも分からないというデメリットが大きすぎて使う気になれない。けれど、試してみる価値があるとも思う。いずれね、いずれ。
これはもう、お気に入りの店を見つけてそこを定期的に徘徊するしかないんだろうな。アースとハニーズはよく見るからそこが気に入っているのかな、と一瞬思ったが、手持ちの服はユニクロと無印で構成されていた。ハニーズは一枚あったが、それだけである。アースは中古で買ったコートのみ。田舎にはその4つしかないんじゃ~い!
というか、8年前から鬱っぽさで外見への興味が消えてしまっていた上に、引きこもっていたから、そりゃそうなるよね。え、8年?! こわ。
話は戻るが、テーパードパンツばかり気に入って5本中3本という状態なので、オフィカジ系の服を探すと好みに出会えそうな予感がある。制服がヘキなこともあり、パリっとしているほうが好きなんだよな。
とくにクィアを自称するほど性別に違和感は感じていないものの、あまりフェミニンすぎるとコレジャナイ感が出る。見るのは好きだけど。私はどちらかと言えばかっこよくなりたいのだ。だからといってボーイッシュを目指すかというと、それも違う。
かわいくてイケメンな女が大好きなので、私もそうなりたい、というのがデカい。Fateのノッブに惚れるような人間なので。アイカツの美月様も大好きなんですが、なんというか、分かりやすいですよね私って。この二人のおかげで私はロングヘアーに固執するようになりました。ちなみに、ラブライブのにこにーのことも愛しています。あと、着飾る恋には理由があっての羽瀬さんや、血界戦線のチェイン・皇さんも大好き。そういう感じのオタクです。(自己紹介)
私がメイクにあまり惹かれないのも、SNSで流れてくるようなメイクは皆フェミニンすぎるのだ。さりとて元が丸顔だからイケメンメイクは似合う気がしない。試しもしてない癖にそんなこと言うな。
というより、私は人の顔が全然覚えられないレベルで顔面という部位に興味がない。興味がないものを飾り立てようと思う訳がない。そらそう。それでも、良いものを着るなら、それに釣り合うよう、小綺麗にはしておきたいとも思うのだ。
しかしメイクというものは、なかなかグロテスクなものを孕んでいる。美しく見せるために虚像を作り上げる。ルッキズムに塗れている。画一的になる。それでも、元の良さを引き立たせるメイクがどこかにあると信じたい。そういうメイクをしたい。そう思う。
虚像は美しいもので、引き立てるのが小綺麗のように思う。美しさに拘ることを否定したい訳ではないのだが、私はどちらかといえば美醜に無頓着な質なので、そんなものに拘ってどうするんだという気持ちがないと言えば嘘になる。
美しさに価値を見出すのは分かる。私も顔面が強い人間は好きだ。だが、外見が美しくなければ価値がないとする考えは、おそらく一生をかけても理解できないだろう。いくら見た目が整っていたって、中身もうつくしくなければ意味がない気がする。
さて、内面のうつくしさとはなんだろうか。思うに、それは善く生きているかどうか、優しさ(これは柔らかい態度という意味ではなく、他者を想って考えられるかどうかを意味する)を持っているかどうかにかかっている気がする。
生きている限り、相手がつらくなるようなことを指摘しなければいけない場面も出てくる。それを頭ごなしに一方的に叱るのではなく、対話で以てより良い方向に修正できるのが望ましい。私の考える優しさはそういうものだ。
もちろん、そんな時間はとれない、という意見もあるだろう。日本が貧しいのは、そこにある気がする。経済的なものもそうだが、心理的にも時間的にもギリギリで貧しいのだ。豊かさとは、余裕を持つことだ。
なぜ技術は発展していくのに、仕事は増える一方なのだろう。果たしてその利便性は必要か。不便の中にそこ、豊かさが隠れているのではないだろうか。
昔、世界の幸福度ランキングでバヌアツ共和国という国が1位だったらしい。そこは、いわゆる先進国から見れば何もない場所で、人々は牧歌的に暮らしている。もちろん不便はたくさんあるだろうし、刺激も少ない。でも、だからこそ、その少ない刺激のひとつひとつを丁寧に咀嚼し、腹落ちさせることができるし、それが幸福に繋がるのではないかと思うのだ。
なぜ倍速視聴されるのだろう。なぜコンテンツは消費されるのだろう。知識は多いほうが偉いのだろうか。もちろん、具体化された知識を持てば持つほど、はっきりとした相似や差異を見つけることは容易くなる。だが、それによって取りこぼされてしまう曖昧で繊細なものもあるのではないか、とも思うのだ。
知識を蓄えることは、思考を着飾ることのようにも思える。
思考とは本来、無秩序で歪なものだろう。それを本来の姿から整ったものに矯正することは、苦痛を伴う。学校というものは、矯正器具だ。徐々に知識を身につけさせ、秩序的にし、社会性を獲得させる。人は社会的な生き物だから、それは必要なことなのだろう。
その結果、秩序こそが正しく、混沌は劣っていて価値のないものとされるのは頂けない。混沌には混沌の価値がある。その混沌を混沌のまま取り出すのが芸術と呼ばれるものなのではないか、と今思った。
理想としては、混沌たる感想と、秩序立った分析を分けて考えることだ。だが、言語は曖昧なものを壊してしまいがちである。このふたつを両立させることは、おそらく、とてもとても難しい。それでも、その困難を乗り越えた先に、得難い何かがある気がするのだ。
混沌の上に秩序を着飾りながら、それでも混沌を、裸を愛してあげたい。