秘め事

本心、本性、などと言うが、果たしてそんなものはあるのだろうか。

誰にも本当のことなど分からないのではないかと思う。本当はどこにもないし、どこにでもあるからだ。空気のように掴みどころがないと思えば、氷のように確かにそこに存在していたりもする。

本当でないなら嘘なのか。偽物なのか。嘘は本当を隠すために作られる。それでも、たとえ作り物だったとしても、そこに存在するならばそれがその場における事実であり真実なのだ。

それに、偽物だったとしても、偽物が本物を超えることだってある。ならば、それこそが真実だと言ったっていいじゃないか。

本当と、嘘偽り。それらは常に渾然一体となってそこにある。綺麗に分けることなどできない。言葉にした途端、本当のことに不純物が混ざってしまう。あるいは、本当のことの輪郭をなぞっているつもりでも、どうしても線は歪んでしまう。それが嘘偽りとして捉えられることもある。

思うに、本心というものがあるとするならば、本心ほど歪で醜いものはないだろう。本心は常に、欲望に塗れている。だからこそ、人は理性で以て、服を着るように美しく装うのだ。

私は常に私を演じているし、常に素でもある。それが装うということだ。服に隠れた部分と、そうでない部分。素が見える部分と、覆い隠された部分。

また、人は仮面を被ることもある。それがいくつもあると、どれが〝本物〟なのか悩むこともあるだろう。しかし、それらはどれも本物なのだ。要素要素は借り物だったとしても、自分の内側で作られるのだから、どんな仮面だって自分自身といえる。

仲が良いのだから隠し事はなしだよ、などと言うが、仲が良いからと言って全裸なれるひとはおそらくごく少数だろう。せめて下着は身につけていたい。それが最低限のマナーとすら言えるだろう。

裸になるということは、全ての防御を取り払うということだ。そこには、やわらかで壊れやすいものが存在する。だからこそ、愛し合うふたりは裸で抱きしめ合うのだろう。やわらかな部分を、そっと寄り添わせるように。

私にそんなことができるだろうか。マシになったとはいえ、元から高かったプライドはすぐには低くならない。

プライドとは、臆病な心の裏返しなのだろう。自分をよりよく見せたい、完璧にこなしたい。それは、不完全な、劣った己を見せることへの恐怖心だ。しかし、この世に完璧(イデア)など存在しないし、優劣など相対的なものでしかない。

そもそも、何が優れていて何が劣っているかなど、その時代、その国、その場によって変わってくる。常に優れていていることなど不可能なのだ。

ならば、そんなものに拘泥せず、自分が楽な方法でやればいい。なんでも自分でやろうとせずとも、自分が苦手なことを得意とする人が必ずいるので、その人達と協力すればいい。