帰ってくる

※本記事にはゴジラ-1.0、およびゲゲゲの謎のネタバレ要素があります。

戦争から心が帰ってこない、とはどういう意味か、ずっと理解できずにいた。

私の身の周りに従軍経験のある者は居ない。そういうこともあって、戦争体験の話を全く聞かずに育った。なので、戦争に対する実感が薄く、我が事として受け止めることができなかった。

それでも、実在する人物にしろ、空想上の存在にしろ、彼らの苦しみを知りたいと思った。

周りは次々と死んでいったのに、自分は生き残ってしまった罪悪感。

平穏な暮らしへの虚無感。あるいは、トラウマになってなお、戦うことをやめられない。戦場でのリベンジを狙う心。

人を殺しておいて、のうのうと暮らすことへの罪悪感。

命の軽さ。

戦争帰りは被害者でもあり、同時に自分の意志とは関係なく加害者にもなってしまう。

そのねじれが心に歪みを齎すのだ。

ゴジラ-1.0の主人公、敷島は、自分が撃てなかったことによって、部隊が一人の整備士を残して全滅してしまう。そして「お前のせいだ」と言われる。整備士の彼らは、前線で戦う兵士とは違い、生きて帰れるはずだったのだ。それなのに、自分のせいで死んでしまった。

これは敷島ひとりの責任ではない。ただでさえ、特攻から故障と偽って逃げてきたのだ。銃の効かない未知の巨大生物になど、怖気づいて当然である。それに、あのとき撃てば、敷島すら犠牲になっていたかもしれない。

内地に戻ってみれば、親は焼け死に、お隣さんからは罵声を浴びせられる。かろうじて残った家で、細々と暮らす日々。

それから親子がやってきて、特攻から逃げ出したという秘密を抱えることになった。写真は捨てられず、罪の象徴のように置かれている。

敷島は悪夢を見る。トラウマになっているのだ。自分があのとき撃てていれば、皆助かったかもしれない。そんな後悔と罪悪感に駆られる。それが、いつまでもいつまでも続いているのだ。もはや生の実感すら持てないでいる。

命の危険がある仕事に身を投じた動機は、もちもん給金の良さもあるだろうが、自らの命の軽さにも原因があるように思えてならない。

しかしそこで、人との繋がりを得て、また、親子に対する愛情を得て、「もう一度生きてみたい」と思うようになった。つまり、今までの主人公は死んでいるも同然だったのだ。生きる資格などないと、そう思っていたのだろう。

その後、ゴジラの口内への特攻を立案する。今度こそ、刺し違えることを覚悟して。それが命の軽さであり、リベンジを成し遂げなければ戦争が終わらないということなのだろう。

機体の説明のシーンで何かあるな、とは思っていたものの、電報が入ったシーンではオイお前絶対奥さん生きてるって死んだら許さんからな! という気持ちでしたが、パラシュートが開いて整備士が生きろ、と言ったシーンでグッと来ましたね。

これで敷島の戦争は終わったのだ。帰ってこれたのだ。

最初は縛って殴るほど怒っていたのに、最後には敷島に生きることを願う。なんとうつくしいことか。これが例えフィクションだとしても、この祈りは必ず誰かに届く。

もうひとりの話をしよう。ゲゲゲの謎の主人公のひとり、水木もまた兵隊上がりである。彼もまた戦争によってトラウマを植えつけられ、何度も悪夢に魘される。

表面上は、出世を目論む野心家だが、彼は出世によって得られる贅沢品に憧れていだ訳ではないだろう。いや、そういうものに憧れていると自分を騙して生きていたのかもしれない。本当の目的は、戦地に送られる弱者は消費されるだけだから、そうならないようにのし上がる。彼なりの生存戦略なのだ。

最初にゲゲ郎を騙すのも、生存戦略のうちである。そうしなければ生きてゆけなかったのだ。ゲゲ郎が水木を檻の中に入れる程度のイタズラで済ませたのも、一種の憐れみなのかもしれない。もちもん親父のチャーミングさも多分にあるだろうが。

ふたりが酒を酌み交わすシーンで、愛する資格はない、といったニュアンスの言葉をこぼした。わざわざ口にするということは、それを渇望しているということの裏返しである。

鬼太郎の誕生は、それ自体が祝福であり、同時に、水木が誰かを愛せるようになる祝福でもあるのだ。それが水木にとっての戦争の終わりだ。

たとえあの村での出来事を忘れてしまったとしても、きっと彼の魂には刻み込まれていることだろう。未来のために戦った男のことを。

どうか忘れないで。僕が居たことを。それがきっと愛するということだから。

(ところで、艦これをかじってたので、震電が出てきたシーンでブチ上がりました。最高!)