適応したくない

 プレイリストを作った。
 私にとって、音楽は必要なものだ。気持ちを上げるのにも、落ち着かせるのにも、音楽は力を貸してくれる。
今は体調がすぐれないので、横になりながらお気に入りの曲たちを聞いている。

 今日は出かける予定があったのだが、身体が鉛のように重くてなかなか布団から出られなかったし、出たら出たで体が怠すぎてびっくりした。私にしては珍しく、頭も重い。
 鬱になってからずっと怠かったが、薬の効果で最近は体が軽かったので、この感覚は久しぶりだ。ピルケースを見れば、昨日の夕方の薬を飲みそこねていた。これが原因だろうか。
 それから暫くしてようやく、昨日は4時頃に横になって、そのまま眠ってしまったことを思い出した。

 今は薬の効果によってギリギリ社会に適応しているが、これは本当に私の求めているものなのだろうか、と思う瞬間がある。
 傾眠には辟易していたのでそれが軽くなったのは助かっているが、安定剤の効果で謎の自信とポジティブが湧いてくるのは、なんだか恐ろしい。いや、こうして怯えている時点で、やはり私は不安を抱えているのか。
 私の半生は鬱と共にあったから、パーソナリティと鬱が完全に癒着しており、どこまでが治療対象で、どこからが私そのものなのか、よく分からない。
 そもそも、社会という狭いものに適応できるかどうかで、正すべきものかどうかと決めるのはなかなかグロテスクな話だ。ただの個性を〝障害〟に仕立て上げているのは社会のほうである。
 それなら適応などしたくないと思う自分がいる。
 だが、実家が大富豪という訳でも養ってくれる人物がいる訳でもないので働かなければならず、会社やら国やらに勤める以外の生き方が分からないので、やはり適応しなければならないのである。

 全く嫌な世の中だ。
 そう、私は社会のことを好いていない。だから余計、適応することに抵抗がある。
 生き物が集まると碌なことが起こらない。そこが狭い箱なら尚更。
 厭だ厭だと思いつつ、結局生き続けてしまう。どうせ生きるのなら、私のような誰かの心の居場所になりたいと思う。だからこうして日記を書く。