今、私はネット上でも物理世界でも「私」という一人称を使っている。
これは、公の場であるという自覚を持つためにそうしている。Twitterの小規模かFFの無い鍵垢くらいしか、ネット上に公私の私に当たる場所はないだろう。そこを履き違えると痛い目に遭う。
それはさておき。昔はネット上では俺を使っていた。十年弱、そうしてきた。使い続けた理由は、親しみやすさ、それから言いたいこととの食い合わせである。それと、せめてネット上では女と思われたくなかったからでもある。辞めた理由は、やはり言いたいこととの食い合わせであった。
一人称には、力がある。イメージを伴う。「私」ならば少し硬い印象に、「僕」ならば「私」よりは柔らかく「俺」よりはやや幼く、「俺」ならば少し粗野な感じがする。そしてなにより、「私」ならば女で、「俺」ならば男だろう、身体の性別によって一人称が決まるだろうという偏見を伴う。その偏見は、時に、いや、常に誰かをinvalid(無効)している。そして、昔の私もそうだった。
「女の子なんだから、そんな言葉遣いしないの」
今でも一言一句違えず思い出せる。昨日のことのように。なぜ私が「俺」を使ってはならないのか。なぜ私は「女の子」なのだろうか。ずっとずっと、心のどこかで悩んでいた。そして、それは〝恥〟の感情と共に、記憶の箱に仕舞われていた。
今、再びそれが開く。ああ、あのとき私は怒ってよかったんだ。恥ずかしがることなんてなかったんだ、と。何年も経ってから、そう知ることができた。そのときの私は殺されてしまったけれど、少しだけ救われた気がした。
なぜ女と見做される者だけが「私」という一人称を強制されているのだろう。これは、自己表現を著しく狭めている。「僕」や「俺」の持つイメージを使いたくとも、女だけが使えない。そんなのまるっきり差別ではないか!
これから一人称を変える、女と見做されている全てのひとが、「俺」も「僕」も「あたし」も、その他全ての一人称を使っても誰も何も言わないでほしい。受け入れてほしい。その一人称はvalid (有効)だ。