作品フィードを眺めていたら、「関口にイライラした」というポストを見かけた。そういう人もいるだろうな、とも思う。
私は、鬱と不安が極限まで高まったとき、不安と恐怖から逃れるため、藁にもすがる思いで読んでいたのを覚えている。
関口巽は地の文において、私は正常だ、狂っているのはお前達の方だ──、と語る。他でもない関口巽という人物から発せられたこの言葉に出会って、なんというか、心底救われた気がしたのだ。
上記は私の日記「ジェットコースター」からの引用だ。タイトルと内容がやや乖離して見えるが、簡潔なタイトルを付けたくなるので、そうなってしまう。だから探すのに苦労した。
それはさておき、私はその一節に、本当に救われた。あまりの衝撃に一度読むのをやめた程である。
かねてより、私が間違っていて、世界が正しくて、だから自分を殺すべきであるとずっと思って生きてきたからこそ、それは世界をひっくり返す言葉だった。自分は正常なのか狂っているのか、その二者択一で精神を削られていた私が、今落ち着いて生きていられるのは、その言葉があったからこそと言っても過言ではない。それくらい大切な宝物だ。
関口巽は、「狂いだよ」と言われた後、遁走する。それもまた、救いであった。ああ、逃げてもいいんだ、と思えた。あなたはおかしいと言われる場所から、逃げてもいい。逃げてもいいんだ。
また、こうも語っている。
私にとっての正常は私の中でしか正当化出来ず、私はどこにいても異分子だった。
だから私は世界との関係を絶って、鬱病の殻を纏ったのだ。私は鬱病の殻を破ったのではない。鬱病の殻の上に正常という殻を無理矢理被っていただけなのだ。
ああ、私だ。そう思った。
私にとっての正しさは私にしか理解できず、私の価値観もまた私にしか理解できず、つまり、ひとに囲まれながらも孤独だった。
だから、正常なふりをした。しかし、それはどこまでいってもふりでしかなかった。
物語としてはその後、涼子というキャラクターが居るのだが、その者と、とある出来事が起こり、一連の記憶に蓋をしてすっかり忘れてしまうほどであった。それでも涼子を助けたいと強く願う関口に、「この世に不思議などない」と常々言っている中禅寺に「謎」と言わしめるが、それは関口が不器用なりにも情に厚いひとだからだろう。
だからこそ、私は関口巽を愛している。
そして、私は大庭葉蔵のこともまた愛している。
世界への不信と恐怖、それ故のサーヴィスの連続。他人のために力を尽くす。自分を殺してでも。
これもやはり、私だ、と思えた。
私の思考を、態度を歪めてでも、他者に合わせてへらへらと笑う。相手にとって心地の良い空間に仕立て上げる。そんな無意な努力をしていた。
そんなことをしていてはいずれ身を崩すと示していてくれていたのに、私はその後も、親友に対してすらそうしていた。それ以外の生きる術がもはや分からなくなっていた。それに気がついたのは、ごく最近である。
たぶん、昔からそうだった。
大人の喜ぶことをした。将来の夢なんか何一つなかったが、お花屋さんやケーキ屋さんと答えていた。ルールを遵守した。良い子でいた。我慢することだけが、私を私たらしめていた。
私はいつから呪われていたのだろう。わからない。それでも、気がつけたのだから、きっとこの呪いは解くことができるはずだ。少しずつでも。
『姑獲鳥の夏』も『人間失格』も、鬱と不安と恐怖に苛まれていた時期に読んだものだ。あのとき、あの瞬間、ふたりに出会えたことのなんと幸運なことか。おそらく一生忘れないだろう。