社会の歯車とはよく言うが

 昨日は眠くて七時頃には布団に入ったのだが、今日ちゃんと目が覚めたのは午後の二時だった。何時間寝たのか知りたくない。

 今日は学校に行って制作物を回収したり、課題の説明を先生から聞いたりした。
 以前、課題で「ソースやシロップを直接舐めてもいいよマーク」のついた皿を制作したのだが、それを紹介する冊子に載せるための紙面を作り直すのが今回の課題だ。
 リテイクを食らった主な要因は「作品(マーク)の全体が見えている写真がない」という点であった。
 私としては全体を載せたつもりだったのだが、シロップがかかっているのは全体とは見做されなかったらしい。
 これは先生の説明と私の解釈の相性が悪かったのか、それとも私の読解力が足りていなかったのか、よくわからない。なにせ中高ろくに通っていなかったものだから、課題の指示を受けるという体験がほぼ無いのだ。比較対象がない。
 親から指示されることもあるが、親と私はツーカーの仲なので比較できない。

 このまま労働の場に出るのが怖い。それは〝無能〟だと思われたくない、という意味だ。労働は能力主義そのものと言ってもいい。なので、この恐怖も尤もなものだろう。とくに昨今は〝即戦力〟が求められる。
 社会に余裕がないな、と感じる。
 生き物扱いされていない感覚、とでも言おうか。仕事の機械化が進むごとに、人間にも機械と同じような働きを求める。最初から使えるように仕上がっていることを求める。
 今年からだったか、インターンシップでの記録が就職においても使われるようになったそうだ。早期から審査が行われている。そう感じる。

 私たちはいつまで誰かのふりをしなければならないのだろう。〝人間〟と同じような動きができなければ、それは無能とされる。社会から弾かれる。そうなれば、生活が立ち行かなくなる。だから怖い。
 私は私のままでいたいのに。
 もう人間のふりをするのは疲れた。