ノンバイナリーかつゼノという話

 今日は濃い一日だった。
 一人暮らしの家からは近く、実家からは遠い歯医者に向かい、歯科矯正について相談した。その歯医者は子供の頃に通っていたところで、受付の方が私のことを覚えてくださっていた。なんだか面映い気持ちになった。
 矯正のほうは、一旦、今ついている器具を外してマウスピースを作るらしい。それと、レントゲンを撮って親知らずがどうなっているのかも確認するそうだ。
 それから、その歯医者の近くにあるイオンに行った。昔の面影を残しつつ、少しずつ変わっていた。
 そのイオンに、「だれでもトイレ」が設置されていた。そちらを使用したかったが、それよりも身障者などの〝本当に〟困っている者が来たらどうしようと思って、結局、出生時に割り当てられた方のトイレに入った。納得がいかない。私だって、排泄のたびに自認とは違う性別を押し付けられるのは嫌だし困る。
 オールジェンダートイレに対する批判はもっぱら、「加害が起きるかもしれないから」だ。なぜ同性(に見える)というだけで安全だと思えるのだろう。さらに言えば、「男から女への加害」が焦点になりかちだ。男性の被害者はいつも透明にされてしまう。

 帰り道、高速道路を走っていた際、前にクラウンかレクサスらしきものが走ってるな、と思ったら本当にクラウンだったし、しかもパトカーだったので色々な意味で驚いた。私は私の思っている以上に車のことが好きらしい。

 ゼノ的な自分は、例えるならゴールデンハムスターくらいのサイズ感だな、と漠然と思っていたし、雪原君(イラスト上での私)はたぶんそうだ。
 そう考えると、イラストの私がアバターなのではなく、肉体こそがアバターだと考えたほうがしっくりくる。私は活字とイラストの中で生きている。
 私は昔から肉体にも生身のヒトにも興味が薄かった。画面の中や活字の中のほうが、よほど真実味を持って感じられた。二次元に出会ってからは、より強く、そう思うようになった。私の仲間は画面の中に、活字の中に居るのだ。
 ゆえに、二次創作は欲をぶつける行為であり、ある種の人形遊びであると頭では分かっていても、それは虚構に住まう彼らに対する暴力なのではないか、と思わずにはいられない。私にとっては、彼ら(ここに性別の意図はない)は紛れもなく生きている者たちなのだ。ともすれば、(いわゆる)現実に存在している者よりも。
 だから、一次創作は、創作という言葉しか知らないからそうカテゴライズしているが、私はただ彼らを観察しているだけで、彼らがそこに存在していることを現実に居る者たちに知ってほしいという気持ちで表現している。

 私が祖父に対して軽い嘘をついたのを、母がなぜかと問うてきたので、祖父の相手をするのが面倒だからと答えた。そして、嘘の練習をしておこうかなと思って、とも付け加えた。
 母は、ひとは誰しも嘘をついて生きていると言った。実際より良く見せようとしたり、本当の自分は自分だけのものにしたいから隠したり。
 わたしはそれに賛同しかねる。私は常に、本当の私で接したい。それが私にとっての誠実さだ。誰のことも蔑ろにしたくないから、誰に対しても本当の自分で在りたい。(しかし、祖父相手は面倒くさい。それは、事実を話せば否定されると分かっているので、嘘をつかざるを得ないからだ。それが嫌だから、面倒だ、と感じるのだろう)
 だから、限りなく素の自分に近い状態で居られる活字の中は、とても居心地が良い。それによって傷つくことがあっても、私はこの私が好きだから、その傷ごと愛したいと思っている。それが私にとっての幸せなのだ。例え誰にも理解されなくても。
 母とは仲が良いと思っていたし、実際そうだが、根本的なところでは分かり合えないんだろうな、と初めて思った。分かり合えなくても、共に生きることはできる。それでいい。