再・社会なるもの
今日は起きている時間よりも眠っている時間のほうが長かった。後悔と欲望の塊のような夢を見て、精神的に疲弊。
ブルースカイから離れると、途端にひとりになる。とくに淋しいとは思わないが、ひとりであることは事実だ。
私は今まで、三つ以上のコミュニティに同時に属するということを経験したことがない。常に二つ、家と、どこかだ。そのどこかが、今はブルースカイである。
中学、親に「高校なら気の合う友人と出会える」と言われる。だが、通信制高校ではほとんど交流を持てずに終わった。
高校、親に「大学ならいろんなところから人が集まってるから、面白いよ」と言われる。だが、身の回りに集まったのは、ジャンルも気質も違うオタクたちで、幼稚さも目立ってあまり交流する気になれなかった。アイテムや課金の数でマウントを取ったり、ひとの物を隠して喜んだり。困ったものだ。
なにより、鬱(というより不安障害か?)のせいで、交流することは、常に不安と隣り合わせだった。
安心して交流できた友達とは連絡も途絶えて久しく、やはり居場所たり得ない。
自立とは、多くの場所にそれぞれ小さく依存することだと言う。それが本当のことならば、私は自立できていないように思える。本当にそうだろうか。実家に戻っているときは別として、ひとりでいるときは、それはそれで楽しくやっているし、連絡を取らないでも平気だ。ブルースカイとて、学びつつ楽しむためにやっているだけで、辞めろと言われたら、それはそれで生きていけるだろう。
人間たるもの他者と関わらねばならない、という考えが刷り込まれているから、こうして誰とも関わらなくても平気な自分がおかしな存在のように思えてしまう。
いや、そんなことはない。決して。こうあるべきだ、という観念は、全て幻のようなものだ。そこから脱するために(もちろんそれ以外の理由でも)、人間ではない存在を自認したっていい。どんな在り方もvalid(有効)なのだから。
そもそも、他者と関わる、関係を持つ、とはどういうことなのか。仲の良い友人になることだけが「関係」だろうか。そうではないだろう。
例えば、買い物をするとき、商品を差し出して買うという意思表示をするだろう。それだけで立派な「社会」だ。「関係」だ。社会の一員たり得るのだ。
満足しているのなら、やりとりできる相手がひとりふたりだけでもいい。孤独だと感じるのなら、勇気を出していいねを押してみたり、フォローしてみたりすれば、もしかすると反応が返ってくるかもしれない。そうすれば、やはり「社会」が出来上がる。
そう考えると、私はたくさんの関係を、社会を持っている。親との「関係」、フォロワーひとりひとりとの「関係」、店員との「関係」……たくさんの「関係」に、少しずつ依存している。社会に所属している。なにも、複数人のグループである必要はない。
だから、大丈夫だ。あなたも、わたしも。