生と贖罪
引っ越した実家に帰ってきた。箱が変わっても中身が変わらなければ、そこは私の家なんだな、と思った。
タイムラインを見ていたら、昔、全肯定botなるものが流行っていたのを思い出した。生きていてえらい。生きていることが偉いのなら、死んだら偉くはないのだろうか。そもそも、偉くなくたって良いではないか。
皆、生きていることを賛美する。自殺未遂は説教される。自発性を貴ぶなら、個人の意思として自殺を認めたっていいじゃないか。そう思うのは、私が生物として破綻しているからだろう。生物は生きながらえることだけを考えている。子孫繁栄させて、種を存続させることだけを考えている。私は、人類など滅んだって良いと思っている。どうでもいいのだ。人類以外にとって、人類が居ようが居まいが関係ないだろう。ただ粛々と、己の生を全うするだけである。
私のような者にとって、死とは蠱惑的なものである。それは死をうつくしいものだと勘違いしているからだろう。私は綺麗に死に化粧を施された遺体しか見たことがない。きっと、礫死体や戦死した者の死体は見ていられないほどのものであろう。明確な痛みがそこに横たわっているのだ。
それでも。それでも、やはり、死は楽になるための術のように見える。だからと言って、私が死を選ぶことはない。私はきっと苦しむべきだからだ。生きることは、贖罪である。