そういうノンバイナリーもある

 私はノンバイナリーを自認しているが、多くのノンバイナリーの方は「男でも女でもない」と思っているように見受けられる。(それが中性かと言われると、それもまた違うのだが)
 一方で、私は「男でも女でもその他でもある」と思っているんだな、という気づきがあった。
 というのも、近々旅行する予定があるのだが、その時私は女湯に入れるだろうか、と考えたのだ。あくまで想像上であり、実際は違うかもしれないが、少なくとも今は「入れる」と思った。
 女トイレも、そこしかなければ(渋々ではあるが)入ることができる。この渋々、という感覚は、私は女ではないのに! というよりは、クソッ社会規範にはまってしまった、という気持ちの方が強い。つまり、私にとって多目的トイレを使うということは、小さいながらも抗議活動の一環という認識なのだ。
 そして、相手が男(に見える)からといって接する時に気持ちや態度が変わることもない。
 だから、私は私だ、性別で区切るな、という主張を通すためにノンバイナリーという名称を借りている。そんな感じなのかな、と思った。
 私には身体違和はそれほどなく過ごしてきたが、ノンバイナリーという言葉を知ってから乳房が邪魔だと思うようになった。それは、「邪魔だと思っても良いよ」という許しを得たからに他ならない。そして私にとって乳房が邪魔な理由は、私の美学に反するから、の一言に尽きる。要は乳を美しいとか、きれいとか、かわいいとか、ましてエロいとも思えない。ただ邪魔なだけだ。
 唐突だが、私のすね毛はびっくりするくらい濃い。それに対して、なんか汚らしいな、とは思うが、「女なのに……」とは思わない。なんというか、そこに機微がある気がする。
 そういえば、父が短パンを履かないのは、「そういう美学だから」といつだか言っていたのを思い出した。それに影響されているのかどうかは分からないが、私は腕や足を出すことはそれほど良いとは思えない。昔はアトピーの掻いた跡があるからかな、と思っていたが、だいぶ良くなった今もそう思っているから、やはり「そういう美学だから」なのかもしれない。

 「男でも女でもその他でもある」という話をLINEで母にしたところ、こんなメッセージが返ってきた。

小学生の頃の交友関係が女の子に特有な特定の子としっぽりととか多人数でこちゃこちゃとということもなければ、外遊びが好きということもなく、教室で一人でということが多かった
中学年までは男子とのほうが仲が良い感じだったし
高学年以降は女子なら興味持ちそうな手芸やお菓子作りも興味なしだったし
むしろ昭和のお父さんの仕事のような除雪とかカラーボックスの組立とかには積極的だったし
ファッションは甘くはないがでも女子よりな感じだったし
はたから見ていて変わってて面白い奴と思ってました

 これを受けて、そういえば小学校の休み時間は、迷路と棒人間漫画の制作に勤しんでたってな、と思い出した。あと空き箱を利用した工作もよくやっていた。
 迷路で思い出したが、図工の時間に『もちもちの木』の木を描こうという課題が出て、私は迷路の如く木の枝を描き込みまくった執念の一作を描いた。こんど実家に帰ったらまた見たい。