パンケーキ食べ食べ委員会、他

 なんだかとても長い夢を見た。思い出せる限りで書き出してみたものの、荒唐無稽すぎて訳の分からないメモが出来上がった。

犬と猫と狐 へやんぽ ハムスター
燃え盛る黒 バッドエンド やけど、顔を隠す ナナチに手を引かれる
ありのままの自分 哲学の問い ああ、前回はひとりで進むのを選んだから、最初からこの章だったんだ セカンドシーズン 十周年
寿司屋? 自分好み
え!読ませてくれるんですか!
おっぱい丸出しの従者 ちょっと足場悪いよ、自分の声で目が覚める
広い部屋、110番を準備、カラスに頭を掴まれる
模擬戦の決闘
何度も延命 体の損失部分をゲルで埋める、娘がマッドサイエンティストになって脳みそをいじられて脳だけが肥大、幽霊になって新聞を読む、銃を撃ちまくる

 なんだこれは。これを夢診断したらどうなるのだろう。

 今日も働いた。昨日は退勤時には晴れていたが、今日は朝からずっと雨。蒸し暑いし、ズボンの裾は濡れるし、これだから夏は嫌だ。はやく冬になってほしい。
 労働中はずっと脳内で歌っていた気がする。よく覚えていない。
 おしゃれなカフェに汗だくのまま入店。どうか許してほしい。七月限定の桃のパンケーキを注文した。この店の前を何度も通っているはずなのに、今日このメニューに気がついた。パンケーキ好きとしてあるまじき事態である。
 ……めちゃくちゃ旨い!! 疲れていたからか、空腹だったからかは分からないが、とにかくありえないほど旨い。滑り込みで食べることが出来て良かった。これを食わずに死んだら後悔するところだった。いやマジで旨い。先日行きつけの店で食べた紅茶のモンブランと桃のパンケーキも、むさしの森の季節限定桃のパンケーキも勿論美味しかったのだが、これはアレだ、多分、好きな味なのだろう。今まで誇張抜きで五十回以上パンケーキを食べているが、これほどの感動は、函館のTea Room AliCe(この店のは全部旨いのでオススメ)で初めてパンケーキを食べたとき以来かも知れない。もしこのパンケーキがいきものだったなら、私はそいつに恋をしていただろう。そういう類の感動があった。マァ私は恋をしたことがないので、これが恋に相当するのかは分からないのだが。
 この店のパンケーキはしっかり焼きのふかふか系で、その時点で私にとっては百点なのだが、まずパンケーキの上にはてんこもりのホイップクリーム、そこに桃のソースがかかっており、しっかり甘いが、しかし甘すぎない絶妙なバランスを保っている。最高。さらに、カットされた桃が丸々ひとつ皿に乗っており、その桃がまた程よく甘酸っぱくて、クリームとソースで甘くなった口の中をさっぱりさせてくれる。そしてクリームの下に桃のシャーベットがあり、夏らしく爽やかな味わいもプラスされている。合計、一億点!
 しかし、いくらパンケーキが好きとはいえ、一昨日食べて今日も食べているのはさすがにどうなんだ、と一瞬思ったが、いつだって一秒後に死ぬ可能性は常にあり、死ぬ間際に「ああ、あのパンケーキはどんな味だったのだろう」だとか、「あのパンケーキをもう一度食べたかった」などと思おうものなら、パンケーキを求め彷徨う亡霊になること請け合いだ。死んでからも迷惑をかける訳にはいかないので、きちんと成仏するためにも、やはり食べたいと思った瞬間に食べるのが良い。間違いない。そう信じておこう。
 思えば、Tea Room AliCeのパンケーキはしっかり焼きのふかふか系だったので、最初に見た者を親と思い込む雛鳥のようなものなのかも知れない。
 世のパンケーキを大別すると、しっとりしゅわしゅわ系としっかりふかふか系に分けることができる。しっとりしゅわしゅわ系は、チェーン店で言えばむさしの森珈琲のパンケーキがそれである。しっかりふかふか系は、さかい珈琲のパンケーキだ。
 むさしの森は二ヶ月に一度、季節のメニューが登場し、恒常メニューはパンケーキのみのものと、ローストナッツと生クリームが乗っているものの二つだ。素のパンケーキには、ホイップクリームやアイス、あんこなどを自由にトッピングすることができる。楽しい。
 さかい珈琲は(私の知る店舗では)四種類プラス季節のメニューとなっている。抹茶パンケーキは求肥が乗っていて旨いのでオススメ。求肥大好き!
 そういえば、さかい珈琲の桃のパンケーキを食べていない。ここまで来て制覇しないのは嘘だろう。今度食べる。

 帰宅。昨日飲み忘れた薬を飲み、布団に寝そべる。
 そういえば昨日、タイムカードのモードが出勤のままカードをかざしてしまい、慌てて離したらビヨヨーンと間抜けが音が鳴って、その場に居合わせた人と一緒に笑ってしまった。今思い出してもウケる。
 うだうだしてたらいつの間にか一時間が経っていた。ここ最近、時間の進みが速く感じられる。バイトもいつの間にか終わる。前期もいつの間にか終わってしまった。何もかもが終わっていく。いずれ私の人生も。
 急に脳が元気になって、無限にポストしまくりそうになり、こりゃいかんと思ってここに帰ってきた。今日の日記はばかに長くなりそうだ。
 先週の土曜日、だから二十七日のことか。バスの中で急に、近代日本文学が読みたい! となり、いくつかの著者を調べて青空文庫のページを開いてみた。その中で、坂口安吾の紹介文が面白かったので、どんな話を書いているのか気になり、フィーリングで『カストリ社事件』と『私は誰?』を選び、読んだ。
 『カストリ社事件』は愉快な短編だった。「肩幅一メートル氏」が気に入った。台詞はなんだか落語でも聞いているような具合で、生き生きとしている。内容はギャグマンガのようなノリ(というよりは、ギャグマンガがこれらの流れを汲んでいるのだろう)だ。
 『私は誰?』は、今で言うエッセーだ。文豪のエッセーを読めるなんて贅沢すぎる。最初から最後まで餡子たっぷりだ。私の日記を読むのもいいが、こちらを読むのも楽しいだろう。

 働きすぎて(体に無理をさせすぎて)鬱に、というのはよく聞くが、私なんかは小手先で課題を終わらせて後はSNSに入り浸ったり絵を描いたりするというぐうたら生活をしていたのにも関わらず鬱になったので、人間壊れるときは何しても壊れる。いや、働くを考えるに置き換えれば、不安から常に思考をぶん回していたから、それが原因と言えばそうなのかも知れないし、そうでないのかも知れない。環境とそれを受け取る感性の噛み合わせもあるかも知れないが、この場合は環境が変われば改善するものだから違うのだろうか。分からん。
 「自己注目」と言うものがあり、「認知の歪み」と共に抑うつ的思考の要因として知られている。ならば、これが鬱病の要因かというと、抑うつ状態と鬱病は別物である、と言われることが多い。
 抑うつ状態と鬱病の違いは、一言で言えば、気晴らしや休息をして気分が晴れるか晴れないか、やる気が戻るか戻らないか、である。
 私の場合、気分については、長いこと不安と憂鬱さに浸されていたから、もはや晴れやかな気分というのは、苦痛が過ぎ去った直後だとか、旨いものを食べた瞬間くらいにしか感じられなくなってしまった。あとは作業中の無心が残されているくらいだ。(たぶんこれは晴れやかな気分とは違うのだろう、と今なら分かる)
 やる気については、これももはや分からなくなっており、必要に駆られればやるし、危機的状況に陥ってようやく手が動くような、そんな状態だ。その証拠に、二〇二二年(つまり鬱を発症した年だ)から急激にイラストの枚数が減っている。ごくたまに気が向く瞬間があり、その時に少しだけ描く、といった状態が三年は続いている。二〇二一年なんかは百枚以上も描いていたというのに、だ。いや、全然嘘だな。小説はとくに必要に駆られていないにも関わらず、去年はもりもり書いていた。しかし、それも横になりながらでも書ける、という楽さがあるから出来たことでもあるように思う。イラストは起き上がらないと描けないので、その時点で苦痛が伴い、やる気がないと出来ない。やる気といえば、私はアニメのことも愛好していたが、ここ数年は自力で視聴に辿り着けない。ということは、やはりそういうことなのだろうか。
 小説や日記を書くのは、楽しいからなのか、無心になれるからなのか、これはよく分かっていない。現に今もひたすら書き続けているが、明確なのは、何かをせねば、という感情に突き動かされていることだけだ。そしてその感情が、好きだったはずのイラストに向かないということは、やはりやる気が出ないという証拠なのかもしれない。そして、憂鬱な日の日記はだらだらと長いが、それは無心に近づきたいからに他ならない。
 楽しさといえば、先日サカナクションのライブに行ったが、良かったとは思うものの、楽しかったかと言われれば微妙なのだ。心がどこか空虚だった。楽しいふりをしている気分だった。それが悲しい。
 鬱病の原因は解明されておらず、強いて言えばストレスかも、といった具合である。私にとってのストレスとは、リモートから対面に変わったことかも知れない。しかし、それですぐに鬱になった訳ではないから、他のことが原因だという可能性も残されている。
 この話題は飽きてきた。おしまい。

 本当は小説を書きたいのだが、プロットを作らねばならず、しかし今はプロットを考える元気がないので、こうして益体のないことばかりを書き連ねている。
 帰宅して書き始めてから三時間は経ったが、やっとこ脳の回転が収まってきた。不安から脳内がぐるぐるぐちゃぐちゃしていた頃に似ている。
 そろそろ眠れるだろうか。