駄文

 七時手前で目が覚めた。昨日は十二時くらいまでずっとスマホを見ていたので眠れるか不安だったのだが、杞憂だったようだ。
 腹が減り、グラノーラを食べる。
 哲学についてのwikiを斜め読み。
 バイト先から電話があって驚いた。未だにシフト表がこんがらがっているようだ。
 半月ぶりに日記を更新。それから過去の記事を読む。同じような時期は似たような話を繰り返している。きっとその時の私にとって重要なトピックだったのだろう。思考Ⅰなんかは書いたことをすっかり忘れていたので面白かった。自分の作ったものを見返すのが苦しいと言うひとが多いように見受けられるが、私は過去に書いた/描いたものを見るのが好きだし楽しいので、ラッキーだったなと思う。
 タイトル被りはしないように一応気をつけていたのだが「ぐちゃぐちゃ」は重複してしまった。きっとこれからもたまに出てくるだろう。
 小腹がすき、昨日買ってきたチョコレートを食べる。食べまくる。
 日々と思考の二巻を読んだら二時間以上経ってしまった。自分の書いた文章は驚くほどするする読めてしまうし、時間を忘れる。
 レポートを進め、蕎麦を食い、小休憩。
 ジュースが飲みたいけれども、全部飲んでしまったので、飴を舐めて誤魔化す。それから、よく冷やした水を飲む。ただの水道水でも、冷やすとちょっとだけ美味しく感じられる。不思議だ。
 明日のことを考えると、働きたくねえな、という気持ちになる。寝て起きたら何も考えずに出勤するだろうと分かってはいるが。
 一生こうして駄文ばかりを書いていたい。しかし駄文は駄文以上でも駄文以下でもなく、ただただ駄文であるだけで、つまり金にならないから腹が膨れないのだ。困ったことだ。いっそ食わなくても存在しつづけられる存在になりたい。だが、私から食の快楽を奪ったらどうなるだろう? 生きるのがちょっとだけつまらなくなりそうだ。まあ、そうなったらなったで、他のことで埋め合わせるような気もする。ならやはり、食事というしがらみから脱したい。
 カビで毒の沼みたいになった排水溝にハイターをぶちまける。そしてシンクを磨く。台所が少しだけましになった。毎日こまめに、というやつが苦手なので、最悪な状態を最高にして、そしてまた最悪になる、を繰り返している。
 レポートを適当に書きつつ適当にレイアウトを組んだら、なぜか測ったかのようにぴったり収まってしまった。理由のわからない成功ほど怖いもんはない。こういうものは、レイアウトを決めて、文字数が確定して、そこから書くものだろうに。めちゃくちゃだ。
 寝る前に洗濯をした。制服についた血は取れず。パーカーについた血も取れず。出血してばっかりだ。
 匂いのついた柔軟剤は嫌いだ。自分のものじゃない、他人の匂いがするからだ。だから、学校のエプロンを洗濯するのも嫌だった。他人の匂いが染み付いているからだ。体臭のほうがいくらかましだとすら思う。

 労働とは罰である、なぜなら人間には原罪があるから、というのが労働懲罰説らしい。私はキリスト教徒ではないので、原罪と言われてもピンと来ないが、それでも、労働を苦しみと定義するならば、「罰である」という考え方はしっくりくる。アダムとイブなど知ったことではない、が、私は常々、私は苦しむべき存在だと思っている。苦しみが労働ならば、私は喜んで働こう。苦しむことで救われる。それは、罰を受けることで私の罪が軽くなる、そんな錯覚を覚えるからだ。
 苦しみと鬱は分けて考え、きちんと見分けなければならない。苦しみによって生み出される何かはあるが、鬱は何も生み出さない。苦しみとは、ストレスを跳ね除けようとするリビドーである。だから力がある。何かを生み出し得る。対して、鬱とは強烈な無力感だ。鬱はストレスをそのまま受け止めてぺちゃんこになった状態だ。ぺちゃんこになってしまっては何も生み出すことが出来ない。だから、苦しみは受け入れ、鬱は避けるべきだ。
 それはそれとして、ただ無心になりたいときや、面白い(interesting)ものを見たいというときもある。
 横になると無心に近くなるが、そうすると眠くもなる。しかし眠ってしまえば意識が無くなるので、それでは意味がない。無心とは、思考しているが、しかし思考していないかのように波風立たない状態のことを指す。私の思考は、放っておくと、やかましく四方八方に飛んでいくので、こうして文章を考えている間のみ、なんとか手懐けておけるのだ。

 眠い。眠いがしかし、寝たくないとだはんこいてる自分がいる。だはんって何のことなんだろう。
 今日は、ここ最近で一番充実した休日だったと言える。明日は働く。明後日も今日のように過ごせたら嬉しい。