過去のきらめき

 過去の日記を読み返した。そこからいくつかピックアップして、少し手直ししながらここに記そうと思う。良い考えが埋もれてしまうのは勿体ない。


 もし天国が本当にあるとしたら今すぐ死にたくなるから俺の天国は用意しないでくれ。
 死んでしまえば赦されたかどうか確認する術もなくなってしまうから、赦されるとすれば、生きてる間に行為が認められたときだけだろうな
 死後に与えられるのは赦しではなく諦めだけど、赦しと諦めは混同されやすい。
 死が救いだとすれば、きっと我々はギリギリのギリギリまで救われることは許されないんじゃないかと思う。
 500年もすればきっと誰からも忘れ去られるし、宇宙の中じゃ500年なんて一瞬だろう。
それでも今、今まさにという切実さもないがしろにはしたくないよ……。
 本当は死ぬことは何でもなく、ただ生き物が現れて消えるサイクルの消える瞬間に名前をつけただけにすぎず、そこに意味や価値を人間が勝手に見出してるにすぎない。
 「〜でなければ生きていても意味/価値はない」と言うが、そもそも生きることそれ自体に意味も価値もない。言語による思考がなければそれを問うこともないのだから。
 だから、生きるに値しないかというとそうではなく、生きるのに意味や価値が必要なら自分で付与すればいい。ただそれだけ。
 なぜ生きるのか、なぜ苦しむのか。世界に"なぜ"という理由、物語は存在しない。いかに説得力のある説明だとしても、それは人間が作り出したもので、普遍の事実にはならない。つまり「無い」んだ。
 死後の報酬などなく、今いかに生きるか。
 言語で形作られている以上、現実もまた虚構にすぎない。
 本当なのは生き物が生まれて死んでいくことだけ。
 不可逆なことに対しては、ただできるだけ昨日と同じように、でも心のどこかに留めながら過ごすしかないので。
 一度死に価値を見出してしまえば、もうそういうふうに生きていくしかないんじゃないだろうか。
 覗くなと言われると覗きたくなるように、死ぬな!生きることこそ良いことだ!と言われると死にたくなるだろう?
 過去の私は毎秒死にゆく。今この瞬間の私だけが、確かに私として生きている。

 理解の範疇の外にいる人間って本当にどうしようもないんだな。ただ許さないでいることしかできない。

 美しくあらねばならないと思うのは、潔癖に縋って責任から逃れようとする未熟さでもあるのかもしれない。しかし、そればかりでもないとも思う。

 自分が正しくて相手が間違っているのだから相手を貶してもよいとするほうが健康には良いんだろうが、僕は僕のことが嫌いなので健康と引き換えにしてでも美しく在りたいし、そうでなければ自分を愛せない。これは魂の話です。

 人が「何もない」と言うとき、無価値だから存在しないことにされた透明なものたちがたくさん居るんだよ。

 付和雷同して生ぬるい平和とメディアの示す幸せとやらを手に入れても、社会にとって都合のいい歯車になりさがるだけだ。血反吐を吐いても俺は俺の理想を信じて愛したいよ。

 世界に科学がなかったから宗教が求められたのではなく、我々の心が非科学的だから宗教が常にあるだけ

 思ってるよりも外からは内心でどう思っているかってのは分からないし分からないからこそ、他者からすれば、今まで見てきた人や(他者にとっての)自分の思考などから類推して「私が空っぽだと思っている場所」は埋められて身の詰まった人間に見えているのかもしれないし、それこそが真実なのかも。

 知ることで生まれる苦しみもあるけれど、知らずにのうのうと暮らすことの方がよほど恐ろしいと思う。

 ギャップなんてのは受け手が理解しやすいよう勝手に「こいつはこうだろう」とラベルを付けて箱にしまったから生まれるイメージからの乖離でしかなく、それはその人に付けたラベルや自分の持ってる箱を見ての感想で、その人自身を見てはいないよな。
 ”そういうキャラ”と形容することはテンプレートで切り取ることで、さらにテンプレの方だけを見ていて目の前の存在する生きた人間は見ていないということでもある。現実を虚構と同じ手つきで語るということは、現実の存在にとっては……。
類型を用いることでおおまかな傾向を知る、キャラクターの分析の道具としては有用かもしれないが、現実に対して振りかざしたら……。

 お前が知らないだけのことを"異常"と括って切り捨てるな。

 「誰かを愛するにはまず自分を愛さなければならない」という言葉は、自分を愛する方法がわからなければ他者も愛せないという話かと思っていたけど、誰かを愛そうとしたときに「自分よりふさわしい相手がいるはず」という気持ちがあると誰かの隣に立ち続けるのが難しくなるということなんだと気がついた。

 熟れている果実があったとして、常人ならば迷わず摘んで食べるだろう。しかし私は、加減を間違えて潰してしまった果実の無残な姿や、ぶちょっとした感触なんかを想像し、そういう不安ばかりを見つめて、目の前の果実が腐っていくことから目をそらす。そうして腐り落ちたものを拾ってからようやく、上手い摘みかたを考え始める。

 乗車率120%のバス、何かしらの何かを侵害されてる気分になる。

 "語る資格がない"という感覚がどこから来るかと言えば、他者との比較と、そこから感じる己の知識不足で、上手く語ることは難しくても知ることなら出来るはずで、知る努力もせずに諦めるのは馬鹿だ!今までの俺は大馬鹿です。

 眠るという行為は、生きているフリと死んでいるフリを同時に行っている気分になる。

 演技は嘘ではなく、自分の意志で選び取ったものだが、それはそうとして自分の意見のひとつを否定するプロセスが挟まるから疲れるんだよな。意見の否定ではなく、選択肢がいくつか自分の中にあって、その中から選び取ることができた、という部分を見つめることが肝心なのかもな。

 俺の会話に対する恐怖って、会話それ自体ではなく、会話後に脳内に現れる自分の発言否定マンに怯えてるんだよなあ。

 知識を持つオタクを嘲笑するような空気のこと、絶対に許さないでおきたい。

 TLでチラッと見て納得感あったのは、学校は同年代の人間が集まってるから「同じ」が前提になりがちで、職場は年齢も立場も多様だから「違う」ことが前提になるってので、インターネットも違うのが前提だから楽なのかな。

 うどんを食べる。洗濯をする。明日明後日の予定を立てる。食器を洗う。米を炊く。
音楽で脳みそを浸す。ふやかして、やわらかく、何も傷つけないように。
 詩のことばで頭の中の刃物を包む。振りかざす理想の鋭利さ。

 自分が想像している最悪の事態は現実ではなく、あくまで想像でしかないことを……。

 "垢抜ける"って都会の価値観に沿ってるか否かじゃん!と思う。方言より標準語が正しいと見做されたり、そんなに東京は偉いんですか?

ただでさえ劇的な恋愛というのは目立ちやすく、さらにそればかりが取り沙汰されているから、まるでそれしか存在しないように感じるだけで、世の中には目に見えてない多様な恋愛が存在している
強い感情が呼び起こされることだけが恋や愛の絶対条件ではない。
 AがBを愛していたとして、それはBが愛されていることと同義ではないのよ お互いの愛の認識が合致してなければ……

 どう足掻いたって自分の思い描く完璧にはなれない。それぞれ不完全だから優劣があるように感じるけれど、ただ差異が存在しているだけで、その違いこそがアイデンティティであり、このひとつしかない視座から何を見て何を感じるのか。何を語るのか。それこそが存在理由、自分が自分として生きる意味。

 馬鹿にする、馬鹿=モノを知らない、知らないことは恥なのか?知るための努力を怠っているとも見えるが、どんな知識や出来事と出会うか出会わないか、それがいつなのかは人によって変わるものだし、たまたま早く知っていただけで相手を下に見る筋合いはない。誰だって最初は何も知らない、何もできない赤ちゃんだったんだし。そのことは知らなくとも、他のことは自分よりも優れているかもしれない。一部だけ見て上か下かなんてジャッジするのはそれこそ馬鹿らしい。

 コミュ障という単語が憎い ”コミュニケーションが上手い人間”は相対的に下手な人間が存在しなければ出てこない概念だ。
言語による意思疎通が、人類全員上手いワケない。全員出来てたらそれはもうロボットと同じで、人間である必要性とは?
そもそも上手さの定義って? 盛り上がること、オモロ連発することだけが会話なの?居心地の良さとか、平穏さとか、そういう尺度もあっていいじゃん。

理不尽な理由で人がdisられてると悲しいよ~それが他人だとしても。

いじめを直接受けた人や加害した人はクローズアップされがちだけど、その近くにいた人って”いじめ”というトピックになると透明になることが多い。
誰もが助けるために動けるわけじゃないし、がんばって助けを求めたとしても……。

 幹線道路で信号待ちをしていると、かなりのスピードを出した車が目の前を何台も通り過ぎていく。猛スピードで動く鉄の塊を眺めていると、もし自分が急に飛び出したらどうなるんだろうなぁと好奇心に似た希死念慮が脳裏を掠める。
マァもし死ぬなら、冬の山奥とかだな。他人にトラウマを植え付けるのは本望ではない。

 流れていく車窓越しの青々とした景色、過ぎ去る夏。
 置いていかないでくれ、私をこの先へ連れて行かないで、もう少しだけここに居させて。お願いだから。
 泣いていいなら泣いてしまいたかった。

 海の底、一直線にただひたすら歩く。歩く。
 周りの通行人と関わることもなく、広告を気に留めることもなく、ただまっすぐに。
この道から外れれば呼吸ができない。決められた線路の上を、ただひたすら行くだけ。
どこに行くか分からない、行ったきりの電車に乗っているようだ。
 ガイドブックは明るい未来だけを描いている。そこに私の行く先は含まれているのか?
 私はどこへ行くのだろう。なんのために、誰のために?
高い山の雪の中、一人たたずむことになるのか、それともそこにすらいけないのか。
 こんなことを考えてしまうのは、きっと疲れているからだ。歩くことも、息をすることも、心臓を動かすことすらも。
少 し歩くのをやめて休憩するように、少しだけ息をするのを、心臓を動かすのを一時だけやめられたらいいのに。そうして休んで、気力が戻ってきたらまた歩き出すから。

 ツイッターなんかじゃ過激なことを言ったほうが面白い、排他的でトガってると面白いみたいな風潮がある。ふざけてそういうフリをしている人が大半だと思う(思いたい)んですが、たとえフリでも続けてたらそれが本音になってしまう危険性はあるし、そういう風潮に乗るのは危ういなと。

 読み切り短編だとシスヘテロ恋愛モノにならざるを得ないのかね。

 習い事でツルッと俺って言って「女の子なんだからそんな言葉遣いしないの」みたいなことを言われ、なんだかとても恥ずかしいことをしてしまったような気持ちになった。
一人称はそれ以降「私」で統一されたが、口調はやや荒めになった気がする。
救済処置としての一人称「自分」。
 一人称が僕の女子が2人いたりして、それでなんか言われることもなく、今思えば豊かなクラスだったんだな~と。だからこそ余計に落差がな……ともなるし、そういう場所でもホモいじりが既にあったのが現代日本の道徳教育の敗北~!となる
 果たしてあれを”中二病”とひとくくりにして終わらせていいのだろうか?
 そもそもネット上が男がメイン層で~ってのもあるけど、でもだからって女子がおらんわけでもないし、一人称が私の男性もいるわけで。
 自分を表すのに「俺」のほうが都合がいいな~ってなったからそうなったんだろうし、そもそもなんで男子は許されてるのに女子になったとたん許されねえんだよってなるじゃんね。
 恋愛したことないし、体の性別に違和感もそこまで感じたことないけれども、ネット上ではどちらとも思われたくないみたいなトコはある。魂だけは自由であれよ。

 みんなと仲良くすべき、パートナーを作るべき、そういうのって自分の価値観じゃなくて周りの価値観じゃん。て思うけど、完全に自分の中から湧いて出た価値観なんてないんじゃないか、とも思うし。

 いわゆる陰キャが陽キャを僻みがちなのは、多数派グループから排除されるからなのかなと思ってて。
 グループ形成に伴って多数派と少数派という概念が生まれるんだから、個人主義に生きれば劣等感を覚えることもない。しかしオタクはオタクでグループを作り、そこでまた排除したりされたり、グループ間対立がうまれたり。SNSという広い世界で再び学校のクラスの閉塞感を再生産しているのがなんとも言えない。

◆自分の言葉で語ること
 ネットスラングと構文は簡単に”みんな”の一部になれるから、匿名の場においては荒らしなどではないという通行証のような働きを期待できる。
 その一方で、アカウントに名前をつけるような場で、形だけの、上辺のやりとりをするのは違うと思ってしまう。
 あくまでそのみんなの一部でしかないというか、陽キャを憎んでるわりにお前らもグループ作って群れたいんだな、あくまで嫉妬だったんだねって感じ。
 同じであることはもちろん好感を持つきっかけになるけど、すこし違う存在が現れたときに排除のきっかけになる。
 お前らは少数派になって排除されたから悲しかったんじゃないの?多数派という塊、波がなければ少数派って概念も発生しなくなるし。
 自由に生きたいし、周りがどう思うかで発言をするかしないかを決めたくない。
 自分がどう思うか。どう感じたのか。
 スラングだとその細かいディテールが削れて平均値になってしまう。あいまいに。

◆「普通」多数派への迎合
戦時中のひとも"ちゃんと"恋愛してた
ちゃんとってなに?恋愛してないと常識ないの?
そういう価値観の押し付けが無けりゃいらぬ嫉妬をせずに済んだんだよ

 今回はホームレスの話だったから例題にするけど、自分がもしホームレスになったとき除け者にされたり暴力振るわれたら嫌だよね?じゃあしないでねって言っても、ホームレスならそういう扱い受けて当然だし甘んじて受け入れますって言われちゃったらおしまいじゃん。

◆自分も将来そうならないと言えるのか
犯罪者への厳罰思想と四肢欠損
必ず死ぬまで五体満足でいられるのか?そのとき向けた好奇の目は自分に返ってくるかもしれない。

 女がする女装、人間がする人間のふり

 小さな子供は些細なことで泣くが、思い通りにいかない不満だとか、上手くいかない悔しさ、あるいはこけて出来た傷の痛みに慣れていないからだ。泣く以外の伝達手段が増えるという側面もあるだろうが、負の感情や痛みに対する感覚が麻痺していくことを大人になると形容するのかもしれない。

 二次元オタクの言う「顔が良い」に不快感があって、「良い声」はそこまで違和感がない理由を考えてた。
 声はイコール声優の仕事だし、声を売りにするために鍛えたりしてるわけだから、そこを褒めるのはそうだねってなる。
 片や「顔が良い」は、ルッキズムにもつながりかねなくてすごく……私は使わないかなって思うな。
 アイドルキャラなら顔を売りにしてるからわかるけど、そうでないキャラはな~

 実在高校生エピソードを直で見れば微笑ましい感じなんだろうが、オタクが萌えとして拡散していると気持ち悪く感じる。ツイのオタクがテンプレというか表面上で慣れ合ってても気持ち悪い。その馴れ合いムーブを自分もしばしば行ってしまうのも嫌だ。
スラングと型だけで中身のないやりとりはしたくない。
 コンテンツとしてお出しされていない、目の前にいる一般の人間を萌えや推しとして消費するのはいかがなものか。胸を見てくるオッサンとそう変わらないのでは、と思ってしまう。一人の人間として見ていない、好奇のまなざし。
 アイドルは直に接することができないからこそ「推す」という概念が生まれたのであって、目の前にいる人間に対してわざわざ無い壁を自ら作ってしまうのは、不誠実だしもったいないことでもある。

 分かるツイートを見たら満足感のようなものが生まれるけど、本当に1から10まで他人が代弁してくれることなんてありえない

 起きてからの5時間、ただゲームや動画で時間をつぶし、ツイートを読むだけの存在になっていたのですが、4年前辺りもちょうどこんなことをしていたのを思い出した。
逃げて、見ないふりして、ただ1日がすぎるのを待って。
 こんなの死んでるのと同じだ。そうか、だから楽なのか。
 誰か見つけて。閉じたワンルーム、箱のふたを開けられるのは私以外ありえないのだ。シュレーディンガーの私。
 こうして文字を書いている間は生きていると言えるだろう。食べることは生きること。食べて、考えて、書いて。

 自分にとって会話とは自動車の運転のようなものだ。いつか事故を起こして相手を傷つけたり、傷つけられたりするんじゃないか。ルール通りに走らなければ。周りの迷惑にならない速度で走らなければ。相手の求めた回答を、正しく間違うことなく返さなければ。
 友達がいる前提で進む話、誰かを好きになったことがある前提で進む恋愛話。
 マジョリティの作り出す言外のルール。
 ルールには従わなければ面倒なことになる。当たり障りなく。都合よく?
 そうやって自分を殺して生きていくのだろうか。みんなにいじられても笑って、それが自分の居場所だと言った彼もそうだったのだろうか。
 みんなのために。でもそのみんなって何?
 同じだと感じて、でも彼には恋愛経験があって裏切られたと感じたのかもしれない。お前もみんなと同じじゃないかと。こちら側じゃなかったのかと。なまじ同じ字だったから。
 それもまた、”恋愛をしている方が偉い”みたいな他人の価値観に基づくものだし。
仲良しグループなら頻繁に通話して当然とか、毎日遊ぶとか、LINEで話すべきみたいな圧を壊したかったのかもしれない。下ネタは面白がるべきとか、一緒になって他人をけなすとか、これは自分らしくない発言かもなとか、もう疲れた。だからアカウントを消した。
 アカウントを消すことで、もしかしたらLINEが来るかもなどと妄想をしてしまうのも悲しい。注目を集めるなら、もっとポジティブな方法のほうが心の健康にも良いだろう。
 人に見られることによって、自分は今ここに人間として存在していると確認できる。
「助けて」は努力してるやつだけが言えることで、私にはそんな資格がなくて、でも苦しくて。努力するのも苦しい。何もしていなくても苦しい

 結婚でショックを受けるってのも分からない。ロスってなんやねんって。いやね、どこの馬の骨とも分からんちゃらんぽらんと結婚します!言われたら待て待てってなるのは分かるけど。
 好きな人の幸せは自分にとっても幸せになるじゃん。幸せに過ごしてほしいなって祈りたい。
 結婚したからってその人が結婚相手のものになる訳じゃない。ただ彼に、彼女に人生の伴走者が現れ、隣で支えてくれる、見ていてくれる。そういう……そういうものなんじゃないんですか?結婚って。
 人生をあげる/もらうって表現も嫌いじゃないけど、私の価値観とは合わないな~と最近思っている。それもまた一つの価値観だと思うし、尊重できる人間になりたいけども。
 そこらへんまだまだ日本人の深層心理に「女は男に嫁いで男の所有物になる」って風潮が染みついてんのかな~ってちょっと思いました。いや全然違うかもしんないけど。
 結婚とは、二人はパートナー同士であることを宣言し、第三者からの関係の侵害から守られること。同居・協力・扶助義務、日常家事の連帯責任・代理権とはつまり、義務を課せられると同時にその権利を保証し守られているということ。

 誕生日とは、産まれてきたことを、今日まで生きてこれたことを、そして出会えたことを寿ぐもの。
 人はいつ死ぬかわからないし、誰と出会うか、出会わないかは少しのスイッチで変わってしまうかもしれない。

 みんなやってるから。本人が嫌がってないから。それでいいの?
 「無言は肯定」よくない概念だよな。お前は声なき声の可能性について考えたことがあるのか?


 未熟なりにいろいろと考えていてえらいな、自分。