今日はおたよりのお返事から始めたいと思います。
先に断っておくと、私はネット上での差別についての議論に疎いので肌感覚で語っています。
一つ前の日記は自分に対して、あれは怒ってもいいことなんだよ、と言い聞かせるために、あえて「攻撃」という強い言葉を使いました。なので、自分はマジョリティかも、と思っている方にとっては怖く映ってしまったかもしれないな、と反省。
ジェンダーひとつ取っても英語が多いので、当事者ではないとなかなかピンと来なかったり、頭に入ってこないというのはむしろ当然のこととすら思います。むずかしいもんね。私もむずかしいなって思ってる。
私としては、用語を無理に覚える必要はないと思っています。ジェンダー関連を例に挙げるなら、敬称をつける前に◯◯って呼んでもいいかな、と確認したり、それはおかしいよって言わないことを自分と約束したり、見た目の性別で対応を変えたりしなければいいんじゃないでしょうか。あとは、これは差別だよ、と書いてあるサイトで勉強するのも良いと思います。
SNSで発信されている生の声は、その人自身の感情を含んでいる場合が多く、勉強のために見るには刺激的すぎるかも。
差別に対して怒ることも、防御することも、もちろん大事なことだけれども、それ以上に、マジョリティとマイノリティという二元論で語ることもまた、男女二元論とあまり変わりがないようにも思います。頭のてっぺんからつま先まで全てが〝普通〟です、なんて人は居ませんからね。誰もが、割合は違えどもマジョリティ性とマイノリティ性を同時に抱えていて、その二つはグラデーションなんじゃないかと思っています。
ですから、お前らマジョリティは無知だ! 我々を無自覚に攻撃していて危険な存在だ! と声を荒げるのは、ブーメランとして自分に返ってくることになるでしょう。攻撃されたから攻撃し返してもいい、なんてことにはなりません。差別に対する差別なのではないか、とすら思えます。
もちろん、差別は許されることではありません。しかし同時に、差別をしてしまった人=敵ではありません。今まで知る機会がなかっただけであって、これが差別なんだと知ることで差別から脱することができるかもしれない人は大勢居ます。私はたまたま差別を差別だと知れただけで、何かひとつでもズレていれば、私もまた差別を差別だと知らないまま生きていたかもしれません。
おたよりをくれたあなたは、既に差別に対して敏感になっていると思います。そばにいって話を聞きたいという気持ちは、とてもすてきなものです。そういうやわらかな気持ちと姿勢があれば、心を開いて敵対せずに関わり合えるでしょう。きっとそうだと願っています。
以下は日記。
昨日はへとへとで十時に寝て、起きたら十時という、実家にしては珍しい爆睡をした。朝食を摂り、布団でごろごろしながら日記を書いていたらいつの間にか眠っていた。
昼食はそうめん。食べながら、『外科医エリーゼ』と『薬屋のひとりごと』を観た。
『外科医エリーゼ』のほうは母のチョイスで、私は途中から観たのだが、医学の知識がふんだんに盛り込まれており、作者はすごく勉強したのだろうなと感服した。その上で小説を書いているんだからすごい。
『薬屋のひとりごと』はライトな探偵ものと、主人公とその周辺のキャラクターとの軽快な絡みが楽しめる作品だ。主人公のサバサバとした性格と、何事にも真剣な姿勢が魅力的だ。
どちらも、ウェブ小説が原作だが、それぞれ違った作品のカラーがあって面白い。故に人気を博しているのだろう。
観終わった後はblueskyを見たり、こうして日記を書いているうちに四時になっていた。夕飯は何にしようか。