回答

これはEs氏の質問の返答である。
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口癖

とくにない。寡黙なほうなので。文章の口癖としては、〜訳だ、を多用しがちなので、よく削る。余談だが、日記では、思う/思ったを削るようにしている。思ったことしか書かないから。

しぐさの癖

フリック入力で悩んでいるときに親指で中指と人差し指の腹をさする(指パッチンに似ている動作)。

3日前の夕食

温かい蕎麦。ちなみに昼食はハンバーグだった。

自分の脳の重さ

そんなに重い気はしない。思考はどこまでも旅に出られるから、きっと魂のようにふわふわしているだろう。

忘れられない一言

嫌だったことばかり覚えている。

記憶に残っている夢

いろいろと覚えている。記憶に残るのは大概グロい。私の夢あるあるとしては、トイレが水浸しだったりバスタブだったりして、他がリアルなだけにトイレのディテールの杜撰さが目立つ。

散歩について思うこと

身体の逍遥は思考の逍遥である。

風呂で最初に洗う部位

ないしょ。

つい忘れてしまうもの

時間の流れ。うっかり話し込んだり、うっかり読み耽ったり。

つい注目してしまうもの

母の動作。他のひとはそんなに気になることはないが、母のことはなぜかずっと見てしまう。

想像や妄想していること

特定のシチュエーションでの身の振り方のシミュレーション。もしくは、自分の創作キャラクター達の人生について。

把握しているホクロの場所

唇、右手中指。

待ったり乗ったりしている間のすごし方

とりとめのない思考。その思考の中で気になったことの検索。うたた寝。

話す・聞く・書く・読む、について思うこと

ここまで数多くの言葉が作られたことに驚くばかりである。
まずは話すことについて。国によって違う言語が生まれたことは、バベルの塔を作ろうとしたから、なんて言ったりする。それはそれで浪漫があるが、私の持論はこうだ。
インターネット上では、“スラング”がよく生まれる。最初の言語の変化もまた、それに似た現象が起こったのではなかろうか。スラングは、仲間意識を強く持たせる。社会を維持するのに、スラングが一役買っていたのだろう。それが段々と増えていき、いつしか各国の全く違う言語になっていった。
漢字を書くことは、絵を描くことに似ている。原初の漢字は象形文字であり、それは今で言うところの絵に近い。ゆえに、形が複雑になっても、漢字は表意文字であり続けた。
漢字は表意文字だが、アルファベットは表音文字である。なぜその違いは生まれたのだろう。
日本語は話し言葉と書き言葉が違うことがある。タメ口や敬語、謙譲語など、口語だけでも種類がある。英語は単語のスラングこそあれど、言い回しがガラッと変わることはない(私が知らない可能性もあるが)。それは、語源と国の在り方に原因があるのではないだろうか。
まず語源。英語やスペイン語、フランス語、イタリア語、ドイツ語などは、うんと遡れば印欧祖語に辿り着く。原点が同じで、派生してもやはり音が似ているから、音をそのまま文字に当てはめれば、別の言語でもある程度、意思の疎通が可能になる。
一方、日本語は語源がはっきりしていない。その上、日本は、日本の中の国ごとに別の言語がある(今日では方言と呼ばれている)。そんな中では、音ではなく、表意文字たる漢字が共通言語となる。故に、カタカナやひらがなという表音文字だけになることはなく、漢字が生き残ったのだろう。
話すこと、聞くこと。私は話すのも聞くのも苦手だ。会話は即時性を求められることが多い。私はじっくり考えて、考えて、その上で言葉を紡ぎたいと思っている。だからこそ、私はSNSでやりとりすることや、日記を書くことを楽しんでいるのだろう。
聞くことは、情報量が多い。言葉、声色、環境音。そこから文章を抽出するのは、私にとって難しいことだ。
今思ったのだが、頭の中に浮かんだ言葉を音声に変換するのもまた難しいんじゃなかろうか。どんな高さで、どんな速度で話せばいいか。それは無意識下で考えられるが、その作業がおそらく苦手なのだろう。それでも、話すことも聞くことも、嫌いではない。
文章を読むこと。これは時間を超えた書き手との対話である。
物語は、脳内で映像に変換して読んでいる。どんな芝居をするだろうか。そんなことをよく考える。