別れについて

 早朝に目が覚めた。寝たのは一二時頃だったにもかかわらず。
 ここ最近は、日記を書く気力がめっきりなくなってしまった。とくに私生活が忙しくなった訳ではない。むしろその逆で、とても穏やかに過ごしている。つまり、私の日記は憂さ晴らしなのかもしれない。今だって眠れないから筆を取っている訳だし。
 ここ最近は、朝に起きて朝食を食べ、家事を手伝い、昼飯を食べ、テレビを見たりblueskyを見たりして過ごし、昼寝をして、いつの間にか夕方になっているので夕飯を食べ、風呂に入り、寝る。判で押したように、そんな生活を繰り返している。鬱病の私にとっては、ゆるいくらいが丁度よい。そんな気がする。

 この一週間は、主に、引越しに向けて動いていたことを思い出した。
 引越しまで一ヶ月はあるが、本は全てダンボールに詰めた。『舟を編む』は読みたかったので残した。
 それから、父のアンプ関連を押し入れにしまい、本を押し入れから出した。父の本は、それこと山のようにある。本当に山になっている。ちらりと見ると、転勤族ともあろうものが、明らかに要らない本(ワープロ検定、古いスマホの取説など)を溜め込んでいる。仕事場から貰ってきた、本人は全く読まない冊子なんかもある。
 なにも、捨てろとは言わない。ただ目を通して、手元に残しておきたいもの、実家に置いてきてもいいかなと思えるものを選別してほしいだけである。今、たまたま父の実家と同じ市に住んでいる。このチャンスを逃すわけにはいかない。

 私にとって、別れはつらいものではない。それはきっと、別れた後も生は続いていくと信じているからだ。“Their journy will continue”、彼らの旅は続く。私たちの旅は続いていく。だから、悲しんでいる暇などない。それに引っ掛けて言えば、ドラマやアニメが終わってしまうのも悲しくはない。私たちの知らない物語が続いていくからだ。
 しかし、「死」は違う。絶対的な別れがそこにある。
 なぜ「死」は悲しくて、つらいのだろう。
 かつて私はハムスターを飼っていた。ゴールデンハムスターである。長毛でふわふわしていて、何を考えているのかよく分からない顔をしていた。それでも、散歩の要求は激しかったし、驚いたときは露骨に固まり、不機嫌なときは歯軋りをしていて、とても分かりやすいのが面白い。
 かの者が死んでしまったとき、胸が張り裂けるような思いになった。私は一生分と思えるほどの泪を流した。かの者との思い出はうつくしく、楽しいことばかりである。それでも、数年経った今でも、別れのつらさが頭をよぎって、新たにハムスターを迎え入れる気になれないでいる。
 死への悲しみ、それは喪失感かもしれない。大切なものが二度と戻ってこないこと。
 死は失うということだ。感情を失い、動きを失い、命を失うことである。そう考えると、鬱病は小さな死のようにも思える。あの頃は感情が不安一色に塗りつぶされていて、他の感情を失っていた。一度壊れたものは元には戻らない。だから、どれだけ科学が発達したとしても、死者を完璧に蘇らせることは、きっと、不可能だろう。
 私が物心つく前の話である。ドラマの死別のシーンを見て、幼児の私は静かに泣いたそうだ。その年頃の子供には、「死」という概念は難しいものだろう。それでも、何か感じるものがあったらしい。それはきっと、悲しむ者たちを見て、幼い私も悲しくなったのだ。
 つまり、死への悲しみは、喪失感と共感のふたつがあるのではなかろうか。