私小説

 細切れの睡眠を繰り返し、十時にならんとする頃にようやく起き上がる気になった。シリアルにかけるための牛乳を買っていないので、朝食代わりに、無印良品のお湯で戻す野菜スープを啜る。体の中からじんわりと温まる感じがする。そしていつものように、薬を飲む。
 机に置かれた本を手に取り、栞を挟んだところから読み始める。活字は、静かで、けれども程よく賑やかで良い。ひとりだけど、ひとりじゃない時間を過ごす。
 集中が途切れたときは辞書を読む。まだ読み始めたばかりなので、あ行だ。
 新明解国語辞典第五版の「愛」の用例はこうだ。
 「親子のー〔=子が親を慕い、親が子を自己の分身として慈しむ自然の気持〕」
 分身とはまた妙な言い回しだ、と思い、引いてみる。「一つのからだや組織から分かれ出たもの」という意味だそうだ。そう定義されれば、確かに子は親の分身と言えよう。しかし、「分身」の謎が解けても、分身として慈しむ自然の気持ち、という文言はなんだか納得がいかない。
 慈しむのが自然なら、虐待をする親は不自然なのか。それは一理あるのかもしれない。わざわざ腹を痛めて産んだ子を痛めつけるのは、何か親が問題を抱えている可能性がある。それなのに、〝犯罪者〟として実名で報道され、顔を晒され、口さがないことを言われる。侮辱される。犯罪を起こしてしまったひとにも当たり前に(当たり前に!)人権があるのだから、侮辱してもいいことには絶対にならない。それなのに、〝犯罪者〟というカテゴリーに仕舞われた途端、どんな言葉をぶつけても良い存在として認識されてしまう。
 話が逸れてしまった。一方で、ネグレクトは動物においてしばしば見られる。虐待にせよネグレクトにせよ、ヒトがムラ単位で行動していた時代は、他のヒトが子を育てるようになるので問題にはならなかったのだ。しかし、個人主義の今、その問題は自己責任として、犯罪という形で、個人に返ってくるようになってしまった。しかし今からまたムラを形成するのは、もはや困難である。ゆえに、赤ちゃんポストや児童相談所、並びに養護施設がある。だが、その施設にも問題点があることが多い。
 考えているうちになにかアウトプットしたくなったので、書きかけの小説を開いて数十文字だけ打ってみるも、あまり気が乗らなかったのでやめた。資格勉強のテキストも手元にないし、することがなにもない。本を読むのは好きだが、まだ本調子ではないことも相まって食傷気味だ。絵を描くような気分でもないし、どうしたものか。
 ふと、「悲しい」と「哀しい」の違いは何だろうか、と気になった。新釈漢和辞典によると、「悲」の「非」は「心の引き裂かれるような気持ち」を表しているとか。一方、「哀」は、あわれむ、という意味もある。新明解によれば、悲しいの語釈の二つ目に「悲しい環境にある主人公の気持ちに共感される様子」を挙げ、それを哀しいとも書く、と解説している。つまり、悲しいは自分のことで、哀しいは他者に共感したときなのかもしれない。
 自分の中で答えが出たら満足したので、万年床に寝転がった。窓から透き通るような青い空が見える。お出かけ日和、とは今日のようなことを言うのだろうな。対して私は、こうして布団の上で無精にも横になっている。なんて贅沢な時間だろう。なにかに急き立てられることなく、ただ時の流れるままに過ごす。私は幸せ者だ。