知の快楽、ヒトの特別性
講義が始まるまで時間があったので、途中で止まっていた『塗仏の宴 宴の支度』を久しぶりに読んだらめちゃくちゃ面白かったので、うれしかった。情報量で殴られるこの感じ、久しぶりだぜ。面白いものを面白がる回路も、繋がったり繋がらなかったりする。
面白いと感じることは、一種の快楽のように思う。睡眠や食事など、生存に関わることなら分かるが、生存には関係のない知の快楽が存在するのは興味深いことだ。いや、知識とは生きるための知恵であり、知ることはより良く、より長く生きることに繋がるだろう。ならば、知ることの快楽もまた必要なものなのかもしれない。
しかし、睡眠や食事と違って、面白いと感じる者と、つまらないと感じる者とに別れる。それを言うならば、食事とて好き嫌いがあるだろう、という反論もあるだろうが、よりきっぱりと好き嫌いが別れているように思える。文系理系体育会系、という分類が生まれるように。洋食が好きだ、という者とて、和食は一切受け付けない、ということは少ないだろう。だが、知識となると変わってくる。しかし、食事がどうでもいいと思う者も居れば、知識を身につけることはどうでもいいと思う者、どちらも居るだろう。ならば、食事や睡眠と並べることができるだろうか。要検討。
それはともかく、知識欲というものは、他と比べて特別視されている感がある。知識を求める者は偉い、そうでない者は愚かだ、といった具合に。それは、知識は人間特有の特別なものだから、という認識があるからではないだろうか。しかし、なにも知識とは言語的知識だけを指すものではないだろう。非言語的なもの、体の動かし方もまた立派な知識だ。言語ばかり称揚するのは、なんだか違うように思う。
講義が一コマだけだと、なんだか交通費が勿体無く感じる。仕方がないのだが。
友達の友達、という存在はとても妙な感じがする。知っているけれども、知らない。知らないけれども、知っている。私はそういう微妙なものがとても苦手だ。ぼんやりとした不安を覚える。相手の人柄からして話しかけられないだろうとは思っても、もしかしたら、と思うと不安で仕方がなくなる。
帰宅。一人でいると、生活が上手くいかない。生きるための気力がどこかに行ってしまう。暫く布団で横になり、少し元気が出たのでゲームをすることにした。一時間ほど楽しむ。
良い時間になったので、ご飯を炊く。最近は麺ばかり食べていたので、久しぶりのお米だ。メインディッシュはヴィーガンハンバーグ。味は悪くなかった。少し独特な感じがしたが、慣れてしまえばなんてことはないだろう。
ヴィーガンハンバーグを買ったきっかけは、別に肉じゃなくてもいいな、という気持ちが芽生えたからである。腹が満たせるのなら割と何でもいいというタイプなので、ならば動物の搾取に加担しない方法を選んでもいいのかもしれない、と思ったからである。
動物の搾取は、ヒトを特別視し、動物を食べるための家畜としてしか見ないからこそ起こる。全ての畜産業に関わる者が、動物を尊重し、感謝を持ちながら食品へと加工するのなら、それは搾取ではない、と言えるのかもしれない。しかしながら、この資本主義の社会では、そのような行いは難しいと言わざるを得ない。安さこそ良いもので、その為には効率を取る。そのような在り方が続く限り、動物を使った食品を食べると言うことは、搾取に加担することになってしまうだろう。
ヒトは特別な存在だ、と思っている者は多いだろう。本当にそうだろうか。いや、もしかしたら、本当に特別な存在なのかもしれない。しかし特別だからと言って、ヒト以外の動物を下に見て、利用するだけ利用してあとは知らない、という行いをして良い理由にはならないはずだ。それが理解できないのなら、ヒトは特別であるという考えを捨て去った方が良いのではないだろうか。
なぜ特別だと思うのかと言えば、やはり、ヒトには言語があるから、言語的知識があるから、ということになるのだろう。再び言語と知識に戻ってきた。
ヒトは多くの言葉という知識の伝達方法を獲得したからこそ、国家を作り上げ、科学を進歩させることに成功した。そしてそれは良いことであると思いたいから、ヒトは特別だと思おうとしているのではないだろうか。もしこれが進化ではなく劣化だとしたら。それは我々の過去全てを否定することになる。きっとそれは耐えられないことなのだろう。だから、知識が増えることを、技術が細かくなることを是とし、先に進んでいると認識する。
他のものを下に見ることで、自分が上だと思おうとする動きは、ヒト対ヒトでもよく見られる。自分こそが優れている。自分の方が幸せだ。その考え方と、ヒト以外の動物を下に見ることは同じことだろう。そうでもしなければ、幸せだと思えないのかもしれない。ならばやはり、心のどこかで、この発達は間違いだったと思っているのかもしれない。