読書、ままならなさ
昔は集中力や体力があったから何時間でも同じゲームで遊んでいられたし、同じ本を読み続けられたものだが、今はそうではない。そのことを受け入れて、本を読むことと別のことを交互に行えば上手くいくことがやっと理解できた。そういう訳で、三十分を三回、二十分を二回と分割することで、計二時間十分読むことに成功した。非常に嬉しい。
家ではどうにもやる気が起きない。家にいる間は、大半を寝転がって過ごしている。昔は起きている時間をツイッターと絵に捧げていたが、最近はSNS依存から脱したし、絵を描くのもいまいち気が乗らないことが多く、結局やることがなくなってしまうのだ。いや、本当は、勉強なりなんなりやることはあるのだが。
そもそも寝転がっていることに原因がある気がする。起き上がっていれば、少しは建設的に生きられるのではないか。そんなことを考えてみたりするが、縦になっているのがつらいので、結局横になってしまうのだった。ままならない。
ひとはなぜ生きるのだろう。今の私は、惰性で生きている。もしかすると、意外とそういうひとが多いのかもしれない。きっぱりと、理由なんてない、と答えるひとも居るだろう。ならば、逆に、死なない理由は何か。これは単純明快。死は概して痛みを伴う、それは嫌だ。これだけだ。死の痛みへの恐怖よりも、生の苦しみが上回ったとき、これはどうだろう。もしかしたら、そのときはあっさりと死を選ぶかもしれない。この世に未練と呼べるものはなきにしもあらず。だが、生の苦しみを前にすれば、そんなものは私を縛るものにはならない。
生きていてえらい、と言ったりするが、本当に生きていれば偉いのだろうか。死んでしまった者たちを貶めることにはならないだろうか。死人に口などないのだから、彼人らが文句を言うことはない。それでも、私は少し気になるのだ。
生も死も、ただの状態を表す言葉に過ぎない。生きていれば心が変化し、死ねば心が変化することはなくなる。ただそれだけだ。生死に、良いことだろうが悪いことだろうが価値を見出すのは、生きている者だけだ。死ねばものを考えられなくなるのだから、当然と言えば当然なのだが。通常は、現状が良いものだと信じたいから、生にこそ良い価値があり、死には負の価値しかないと、そう思いたいのだろう。
なぜ死を恐ろしいものだと思うのだろうか。今まで築いてきた価値が消えてしまうからか、己の意思が消えてしまうからか。分からない。
要は、私は常に死にたいとぼんやり思っているのだ。静かな希死念慮と言おうか。だから、ときどき虚しくなる。どうせ死ぬのに、生きながらえて、知識を蓄えて、何になると言うのだろうか、と。そう考えると、生に価値などないように思えてくる。死ぬまでの暇つぶし、なんて言ったりもするが、本当にそうなのかもしれない。
だが、誰かと交わること、これには何か意味があるように思える。生に価値を見出している者たちに対して何かができるかもしれないし、そこに価値を見出してくれれば、私の生にも多少なりとも価値が生まれるような気がするのだ。
いや、そもそも、価値なんて無くてもいいのかもしれない。価値などなくても、無意味でも、それでも生きた証はどこかに残る。私はそのために生きているのかもしれない。この世に少しでも爪痕を残すために。