苦しみという伴侶

 昨日、薬を飲まずに寝てしまったからか、昼間に憂鬱な気持ちになっていた。
 ミュージカルを観劇する手段のこと、受け取るための環境。それは原作を愛好している者たち全てが観るところまで行き着ける訳ではない。よしんば観れたとして、違う媒体で出されたものであるから、今まで気が合っていた者たちとは違う感覚を覚えることもある。
 何が言いたいかと言えば、私は孤独を感じているのだろう。今まで入っていた輪から弾き出されたような、そんな錯覚を覚えている。
 だが、語られたことばかりが全てではない。観て、合わないと思って、口を閉ざしている者はきっとどこかに居るのだ。その者のことを考え……そして己を見つめ……そうすれば、きっとひとりではなくなる。
 孤独感というものは、生存のためのアラートだ。だから耐え難い。他の個体が多い場で弾き出されれば、攻撃される可能性さえある。だから怖い。
 憂鬱になると、そんなことばかり考えてしまう。
 ……しかし、この憂鬱さに居心地の良さを見出している私が居るのも事実だった。ゆるく首を絞められているような、心に穴が開いているような、泣き出す三秒前のような、そんな気分。それが存外、悪くない。苦しむことこそが生であるように思えてくる。きっとそんなことはないけれど。
 本当に、前向きで明るい気持ちで居ることだけが良いことなのだろうか。
 私にとっての苦は、心が満ちることだ。楽というのは、心が空っぽなことで、だからどこか虚しく感じる。
 楽しいという感情は、瞬間的なものだ。だから、終わった後には何も残らないように感じる。
 苦しみや悲しみは、ずっと私のそばに居てくれる。楽しさはすぐどこかに行ってしまう。だから、私の伴侶は苦しみなのだ。
 助けてくれ! という気持ちだけがある。何から助かりたいのかは分からない。きっと一生助かることはない。いや、助かったとしても、それはなんだか嘘っぱちのように思えてならない。痛みだけが私の人生を本物にしてくれる。苦しみを忘れている瞬間は、目を瞑っているだけ。そう思っているから、私の鬱は治らないのかもしれない。治らなくても良いとさえ思っている。