ぐちゃぐちゃ

 腹の中にぐちゃぐちゃとした感情が蟠っている。それが何なのか、自分でも分からない。ただ、つまらねえな、という気持ちだけは確かにあった。
 何もポストしたいことが思いつかない。する気にならない。タイムラインを見る気も失せている。
 世界との断絶。関心の消滅。
 どうでもいい。
 ただ働いて、眠って、学校に行って、たまに文章を書く。それだけで十分だと思う自分が居る。世界が狭まっていく。
 苦しい? 苦しいのかもしれない。なぜだろう。仕事はやり甲斐があって楽しい。授業も面白い(もうすぐ終わってしまうが)。他に何が要るというのか。
 苦しいときは、よく首を絞められる想像をする。実際、心理的に苦しいときは、物理的にも息苦しく感じる。なぜだろう。なぜだろう。
 部屋が荒廃していく。怠惰な生活。
 満たされているのに、どこか空虚だ。
 孤独、という言葉が脳裏をよぎる。私はさみしいのだろうか。
 このつまらなさと苦しさと空虚さは、一体。
 居心地の悪さに心地良さを見出している自分が居る。生きていることをありありと感じられる。
 死にたいとは思わない。苦しみとは価値のあるものだ。苦しみは何かを生み出す。何も生み出さない暮らしなど、価値はない。何も生み出さない自分など価値はない、と思っているということだろうか。そうかもしれない。
 何を以って幸福と言うのだろう。辞書を引けば、満ち足りていること、とある。ならば、私にとっての幸福とは、苦しむことなのか? それはなんだか違う気がする。だが、常に平穏な状態というのも、それはそれで気持ち悪い。
 心理的恒常性、ホメオスタシス。私の人生の半分は苦しみと悲しみで満ちている。だから、そこからの変化を拒んでいるのかもしれない。本当は、苦しみのない人生のほうが価値があって、幸福なのかもしれない。そうだと頷く自分と、いや違うと否定する自分が居る。たぶん、どちらも本当だ。
 ああ、嫌だ嫌だ。何が? なんだろう。
 誰かと接しているときの私と、ひとりでいるときの私との乖離。どちらが本当か、などという疑問はナンセンスだ。どちらも本当なのだから。ただ、明るく振る舞う私は誰だろう、という気持ちがあるのも事実だった。
 ひとは孤独だ。真に分かり合うことなど出来ない。寄り添うのが精一杯だ。いや、そんな話をしたい訳ではないな。私の孤独さ。自己開示の少なさ。主観的な孤独感。ただ上辺だけのやり取りが続く。深層に居る私を見てもらえないさみしさ。表層は役割に基づいたものでしかない。ある程度、型に嵌めたもの。綺麗に整えたもの。別に隠している訳ではない。見せ方が分からない、いや、表層を自分だと捉えられていないのか?
 逃げ出したい。だから眠る。涼しい部屋で、布団にもぐる。