「まなざす」ということ
「まなざし」とは何だろうか。
wikiには、「まなざし(哲学)」というページがある。何度かこのページを見ており、そのたびに、何を言ってるのかまるで分からんと思いながらタブを閉じている。今回は、おお、知っている名前がたくさんあるぞ、という感想が新たに追加された。
そんな訳で、哲学的なまなざしを正確に理解・解説するような力はまだ無いので、個人的な「まなざし」に関する考えを話してみようと思う。(つまり、哲学かぶれの与太話だ)
まず「まなざし」は、フランス語のRegardという動詞から来ている。なので、「まなざす」という妙な日本語が出てくることになる。
「まなざし」とは、「私が見る」という行為と「見た対象に対する私の解釈」というふたつの事柄を指している、と私は考えている。解釈とは、相手を役割や属性に分類すること、つまり言語化することだ。なぜ言語化するかといえば、我々は常に言語でしか思考することができないからだ。
属性とは、自分が見聞きしてきた特徴の平均値、もしくは規範だ。
我々は、大勢の人間を見るとき、ああ人間だ、通行人だ、といった程度の浅い認識(=まなざし)で留めている。何十人、何百人とすれ違うたびに、あの人はああで、この人はこうだ、などと考えていては頭がパンクしてしまう。
ひとりの他者をいち個人、意識を持つ生き物として認識・理解しようとするときには深くまなざすことになる。Aは他者で、女で、クラスメイトで、明るい人、〇〇が好きで、といった具合に。そして、役割や属性が極限まで細分化され、役割や属性が無意味になったとき、初めてAという存在を、Aというひとりの人間として捉えることができる。そうしてようやく、ひとりの人間とひとりの人間として関係を結ぶことになる。
さて、インターネットという場は、人類にとって新しい社会の在り方のひとつだ。
一昔(二昔か?)前のインターネット上での交流の場といえば、匿名掲示板だ。そこでは、発言者は一人ひとりの個人ではなく有象無象の群衆であり、何番の発言、という区別しか存在しない。だから常に、属性でしかまなざされない。また、個人として扱われない代わりに、無責任でいられる場であり、権威とは無関係でもあった。それと地続きなのが、ニコ動のコメントだ。これもまた匿名であり、有象無象に埋もれることになる。
しかし、現代の、とりわけSNSでは、私は私であるという意識を持って使っている者の方が多数派なのかもしれない。それは、ハンドルネームという名前が付いたからだ。名前は個体を個体として確立する術である。そして、リアルタイムで更新されるという在り方は、そこに生の感触を与えている。(それは昔からそうだった、とも言えるか)
しかし、「とある単語を含んだポストを投稿した人」という通行人のようにまなざされたり、私の場合なら「鬱病の人間」としてまなざされることもあるだろう。ネットとは、良くも悪くもそういう場であると思っている。
言葉とは、一度自分自身から切り離されたものであり、ある種の死んだものだ。文章は、謂わばデータだ。論文なんかはその最たる例である。それでいて、私的な文章には感情が乗っているのもまた確かだ。感情の込められた文章は、生きていると言えるかもしれない。
鍵垢やROMで誰かをフォローする(観察する)という行為は、一方的にまなざすということであり、ある種の暴力性を孕んでいる。まなざしのwikiのフェミニズム理論の項に、「ハリウッド映画が窃視症とスコポフィリア (視覚快楽嗜好) のモデルにくみしている」と書かれているが、一方的な観察も窃視のようなものかも知れない。そしてハリウッド映画に限らず、人間を主題にした創作物全てに言えることではないだろうか。キャラクターは作られたもので、ぬいぐるみのようなものだが、その一方で彼らは作品の中では確かに生きている。その彼らを一方的に見て、さらに内面の描写があれば、窃視であると言える。話をネットに戻せば、界隈と一括りにし、群として見ることもまた、乱暴なことなのだろう。
人をデータ化するということは、生き物ではなく情報、モノとして扱うことであり、そこにもまた暴力性が潜んでいる。
フェミニズムといえば、女性の地位向上を目指すと同時に、女性の規範を壊そうという取り組みでもある。それは、深くまなざすこと、つまり役割や属性ではなく「その人自体」を認識し、「その人自体」として接しよう、という動きだ。
人間という概念、そして規範は、人間が作り出したものである。本来は、そんなものは無い。それは、男女や年齢にも言えることだ。「実存は本質に先立つ」はサルトルの言だが、本質(あるものをそれたらしめる特性、役割・属性・規範)は後から作られたものだ、ということだ。
サルトルはまた、「人間は自由という刑に処せられている」とも言っている。規範の無い世界は、自由という刑、つまり、己で考え、判断し、責任を負うことを迫られる。その責任に耐えられる人は、果たしてどのくらい居るのだろうか。
現代は、人間規範の破壊を目指す動きが活発だ。マイノリティの顕在化がその一端と言える。人間かくあるべし、という枠組みからはみ出した存在もまた人間である、と定義し直している。いや、そもそもの人間という枠組みを無くす運動だろうか。
会話を試みることもまた、昔からある規範の破壊の一例であり、それは日常ポストにも言えることだろう。
さて、ここからは私の話をしよう。私が万人とフラットに接することができるのは、規範の無視ではなく、浅いまなざしで終わっているからかも知れない。ゆえに興味が持てない。その原因は、私が転勤族であることに由来しているのかも知れない。深く知ったとしても、その関係はいずれ失くしてしまう。それならば、最初から持たなければ良い、といった具合に。
私は会話の中で自己開示をすることに抵抗がある。それは相手から深くまなざされることの拒否だ。閉じている。しかし、前述の理由では、親にすら自己開示をしなかったことの説明がつかない。この諦めはどこから来ているのだろうか。いや、諦めではなく、必要性を感じていないからか? どちらにせよ、私の孤独は、そこに根差しているように思う。
しかし、もし本当に、役割と属性のみで人を認識しているとすれば、そこからはみ出した人間を「ありえないもの」として糾弾し、他者に規範を押し付けるような人間になっている筈だ。しかし、私は、そうはしない。
とあるクラスメイトが、別の人に対して「意外だ」と言った。それは、こういった役割・属性を持つものは、こういった人物像であろう、という予測や、(規範ほど強くはないが)こうあるべきだろう、という考えがあるからそのような発言が出るのだ。私は他人に対して、「意外」と思ったことはあまりない。へえ、と思っておしまいだ。そこに驚きはない。ならば、私の他者に対するまなざしは、「見た対象に対する私の解釈」がすっぽりと抜けていて、言語化されずにあるがままに受け取る代わりに、何のフックも無いからそのままするりと掌の上から滑り落ちてしまっている、と考えることができるのではないだろうか。
その一方で、私はここ最近まで、強烈な不安に苛まれていた。その原因は、「普通であらねばならない」、「他者を傷つけてはならない」という二点に集約することができる。〝普通〟の呪いを解き、規範を崩し、他者を傷つけてしまうことよりもその後の行動が重要であると認識を改めた結果、怖いものはなくなった。自由になった。さて、その先は?