ペシミズム

 昨日の六時頃に寝落ちたらしく、十一時頃に目が覚めた。横になっているのが苦痛になって(!)、起き上がり、少しだけグラノーラを食べて小腹を満たした。
 少し眠り、再び目が覚める。やはり横になっているのがつらい。そんなことってあるんだ。観念して椅子へと移動。今日は用事があるが、家を出るまで六時間以上はある。何もする気にならない。どうしよう。
 金欠なので新たに本を買うのは躊躇われる。というか、紙で欲しい。
 物語を読むのは、えいやと意気込まないとできない。感情の動きを受け止めきれない。万全を期して臨みたい、という気持ちもある。そんな万全、どこにあると言うのか。諦めたほうがいい。
 ふと、つくみず先生が表紙イラストを描いた、シオランについての本を買っていたことを思い出し、本棚から引っ張り出した。気がついたら家を出る時間になっていた。バスの中で続きを読む。
 強い人間を目の前にすると、私が愚鈍であることを思い出す。胃痛、吐き気。緊張、恐怖。一刻も早く家に帰りたい。まるで針の筵だ。助けてくれ、いや、助けなくて結構、私にはこれがお似合いだ。
 帰宅。カレーとメロンパンを食べる。
 布団に潜り込む。

 この空虚感は何か。不安とは、脳が掻き回され、首を絞められるような、苛烈なものだ。対して、空虚感は、ただ背後に佇む。それだけだ。故に不気味である。
 文章は良い。書かれた言葉というものは、皆、死んでいる。だから安心して身を委ねることができる。
 生き生きとした人間というものは、暴力的である。言葉の端々から、己は絶対的に正しいのだ、という確信が見える。絶対的に正しい者を前にしてみろ、そうすれば私は間違っているということになる。いや、元より私は間違った人間なのだが、いつにも増して間違っているという気になり、惨めな思いに駆られ、その場から逃げ出したくなる。それこそ惨めな話だが。
 無意味に笑うというのも恐ろしい。いや、無意味ではないか、文脈の分からない笑い、としたほうが適切かもしれない。理解できないものは、恐ろしい。それが面白いと思うこともあるが。
 私の不幸は、私の身近には首を吊るのに最適な梁も木も無いという、この一点に尽きる。
 虚しい。虚しさを紛らわせようと思い、考えを巡らせようとしても、やはりそれもまた虚しいということに気がつくので、ただ横になってじっとしているより他にない。